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山中静逸(やまなか せいいつ、文政5年(1822年) - 明治18年(1885年))は、明治時代に活躍した書家・政治家である。 名は松寿のちに献(まつる)、号を信天翁と称した。尾張棚尾村東浦(現在の愛知県碧南市)に生まれる。 == 略伝 == 尾張の素封家に生まれる。父七左右衛門は京都で学び、日本各地を歩いて地理を探求し、東浦で子弟の教育を行っていた。 静逸は早いうちから大坂の篠崎小竹に入門したが、父の死後この家業を継ぎ子弟の教育に当たった。しかし、京都に出て国事に奔走していた弟が急死すると家督を譲り、伊勢の斎藤拙堂に入門。 3年後に京都に出て梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲賓ら勤王の志士と交わり、国事に身を挺した。この頃に富岡鉄斎と知り合い生涯の友となる。 安政の大獄では多くの同士を失ない、自らの身にも危険が及んだために難を逃れて修学院村に身を隠した。 明治維新後、岩倉具視に仕え様々な要職を経て、1869年には桃生県(すぐにのち石巻県に改められる)知事に就任。 1873年、52歳で引退。京都下鴨に移住し、嵐山の大堰川畔に「対嵐山房」を結び、文芸三昧の悠々自適の生活を送る。1879年、書の個展を開き『帖史』を刊行。 1885年に病没。享年64。明治政府より正五位を受け、1913年には従四位を受け、東浦の神明社(碧南市東浦町三丁目)に信天翁碑が建立される。このときあわせて伝記が出版されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山中静逸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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