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四代目山健組(やまけんぐみ〔『Yamaguchi-gumi don celebrates a decade at the top』 1999年7月19日 ''ジャパンタイムズ'' 〕)は、兵庫県神戸市中央区に本部を置く暴力団で、神戸山口組の二次団体。構成員の総数は警察当局により約2000人。〔『Police wary as Yamaguchi-gumi prepares to fete sixth don』 2005年8月19日 ''ジャパンタイムズ'' 〕。本部直参は約78人、構成員は約2000人、準構成員は約2000人、山口組において、一時は「ヤマケンにあらざれば、ヤマグチにあらず」と言われるほどの勢力を誇った。2015年の山口組分裂により、新団体神戸山口組を結成し、同団体の中核となっている〔 2015.9.7 21:09 産経WEST〕。 == 来歴 == 愚連隊を源流としている〔『暴力団』 : “二二の指定暴力団” 溝口敦 2011年 新潮新書 ISBN 978-4-10-610434-3〕。三代目山口組(組長・田岡一雄)の若衆・山本健一が1961年に結成。 山本はその後、山口組若頭補佐に就任し、1971年に山口組若頭・梶原清晴が海難事故で急逝すると、その後任に就任した。 その際、山本健一と、同じく若頭補佐の山本広による決選投票が行われ、投票の結果一度は山本 広に決定したが、山本健一の直訴により田岡から山本健一が指名された。 田岡の山本健一への寵愛ぶりは有名で、山本健一自身は田岡の後継者と目されながらも田岡の後を追うように病死したが、死後も山本健一の遺志をふまえ、山健組の出身者は山口組の主要ポストに起用されていった。1984年に四代目山口組組長に就任した竹中正久は、直参昇格間もない二代目組長渡辺芳則を異例の早さで若頭補佐に抜擢した。 渡辺は翌1985年1月、竹中とともに山口組若頭・中山勝正が暗殺されると、2月に編成された暫定執行部体制の下で後任の若頭に就任し、直参昇格から3年足らずの間に山口組ナンバー2の座まで上ることとなった。のちに六代目山口組体制において高山清司が直参昇格からわずか4ヶ月で若頭に就任し、この記録を破っている。 1989年に渡辺が五代目山口組組長に就任すると、三代目を継承した桑田兼吉の他、中野会会長・中野太郎ら最高幹部10人が同年のうちに本家(山口組)直参へ昇格、翌90年には桑田と中野が山口組若頭補佐に就任して山健組の勢力を磐石なものにし、山口組内の最大派閥へと押し上げた。 2003年、桑田の懲役7年の判決が確定すると、若頭・極心連合会会長橋本弘文を組長代行に昇格させ、四代目健竜会会長・井上邦雄を後任若頭とする組織改編を行った。 2005年、橋本と前舎弟頭の相談役・太田会会長太田守正が本家直参へ昇格し、橋本は山口組若頭補佐に就任した。 2005年、司忍を首領に据えた六代目山口組が発足すると、桑田が引退し若頭・井上邦雄が4代目を継承、井上は山口組幹部(「幹部」という名称の役職)に就任した。同年11月には、舎弟頭・木村會会長木村阪喜と舎弟頭補佐・大同会会長森尾卯太郎が本家直参へ昇格した。さらに同年12月には、井上が幹部から山口組若頭補佐兼阪神ブロック長に昇格・就任している。 六代目体制下にあっても山口組の最大派閥であり執行部メンバーも輩出しているが、同体制の司忍組長、高山清司若頭がともに弘道会出身であることから、山口組内では弘道会の発言力が増してきており、一時の「ヤマケンにあらざれば、ヤマグチにあらず」と言われた時期に比べると、その勢力はやや陰っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山健組」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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