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佐竹 祐義(さたけ すけよし、生没年不詳)は、室町時代の武将。常陸国に勢力を持つ佐竹氏の一門、山入氏。父は佐竹与義で、その次男。兄に義郷。子に義知、義真。 == 生涯 == 応永29年(1422年)に父の与義が戦死し、兄の義郷もまた短期間で隠居もしくは没したことから、祐義が山入氏の家督を継いだ。応永30年(1423年)6月、室町幕府将軍足利義持は、常陸守護である惣領の佐竹義憲(後の義人)を解任して祐義を任命しようとして鎌倉公方足利持氏の反発を買った〔『満済准后日記』応永30年6月5日・同32年閏6月11日条〕。このため、幕府は祐義を一方的に守護に任じ、守護が事実上併存する状態になった〔杉山一弥「室町幕府と常陸〈京都扶持衆〉」『室町幕府の東国政策』(思文閣出版、2014年) ISBN 978-4-7842-1739-7〕。 永享の乱・結城合戦では祐義はいずれも幕府方に属しており、鎌倉府方に属した惣領の佐竹義人と敵対している。結局鎌倉府方は2度にわたる大敗北を喫したため、義人は隠居して長男の義従(後の義俊)に家督を譲った。 しかし、義人は次第に義俊を疎んじて次男の実定を偏愛するようになり、そのため義俊と実定の間で家督をめぐる抗争が巻き起こった。祐義はこの乱に際して実定を支持して介入し、1452年には江戸通房らと謀り義俊・義治父子を本拠地太田城追放した(この抗争は義人・実定の相次ぐ死によって義俊方が勝利し、応仁元年1467年に義俊は太田城に復帰している)。 祐義の後は長男の義知が継ぎ、宗家との争いを続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐竹祐義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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