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山内 忠義(やまうち ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。土佐藩の第2代藩主。山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子。 == 生涯 == 文禄元年(1592年)、山内康豊の長男として遠江国掛川城に生まれた〔『寛政重修諸家譜』。〕。 慶長8年(1603年)に伯父・一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を賜って忠義と名乗る。同10年(1605年)に家督相続したが、年少のため実父康豊の補佐を受けた〔『高知県史』通史編。〕。慶長15年(1610年)、松平姓を下賜され、従四位下土佐守に叙任された〔村川浩平『日本近世武家政権論』、75頁。〕。また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦。なお、この時預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し豊臣方に加わるという珍事が起きている。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、暴風雨のために渡海できず参戦はしなかった〔。 藩政においては、慶長17年(1612年)に法令75条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永8年(1631年)からは野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から反発を買い、明暦2年(1656年)7月3日に忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した〔。 寛文4年(1665年)11月24日、73歳で死去。墓所は高知県高知市天神町の真如寺〔『高知市史』。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山内忠義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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