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山内 新一(やまうち しんいち、1947年12月3日 - )は、島根県大田市出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 島根県立邇摩高等学校を経て三菱重工三原に入社、1966年には第37回都市対抗野球大会で準々決勝進出。にドラフト2位で巨人に入団。巨人時代は5年間で14勝、には1勝も出来ずに松原明夫と共に富田勝との交換トレードで南海へ移籍する。 巨人時代ヒジを痛め、くの字に曲がっていたため速球が投げられなくなっていたが、南海に移籍後、投げると自然とスライドする癖を見つけた野村克也監督の「村田(兆治)はスピードで20勝する。お前はコントロールで20勝したらそれでいい」の言葉で、外角へのスライダー(左打者にはインコースで詰まらせ、右打者には引っ掛けさせる)を武器にする技巧派に転向。この年にいきなり20勝をマーク、一緒にやってきた松原も7勝をマークし、南海のリーグ優勝に貢献する。 この出来事がきっかけとなり、前年の江本孟紀の16勝と合わせて、球界に「野村再生工場」という言葉が出来たこと、以後、野村監督が目を付けた投手は他球団が出したがらなくなったことは有名。 以後エースとして活躍し、にも20勝をマークしたものの鈴木啓示、山田久志、東尾修らがパ・リーグにおいて全盛を極めていた為に、20勝しても最多勝利のタイトルには届かなかった。このことについて野村は「時代が悪かった」と悔やんでいる。 には、同姓の投手である山内和宏、山内孝徳が入団。背番号も山内和宏18番、山内孝徳19番、本人は20番と連番になり、山内トリオとして売り出された。 に無償トレードで阪神へ移籍するが、翌年のは5試合の登板に終わり現役引退。記録は残せなかったが、この年阪神の21年ぶりの優勝メンバーに名を連ねた。 引退後は、播磨興産に勤務し、営業担当となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山内新一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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