|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 口 : [くち] 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening
山口 修弘(やまぐち ながひろ、生年不詳 - 慶長5年8月3日(1600年9月10日))は、戦国時代後期から江戸時代初期の大名。山口宗永の長男。弟に山口弘定。右京亮(右京進)。 豊臣秀吉に仕え、文禄3年(1594年)には越前で1万3000石を領していたが、慶長4年(1599年)に同石高にて加賀江沼郡へ転封された〔堀越祐一「知行充行状にみる「五大老」の性格」2010年〕。長刀の達人。 関ヶ原の戦いでは、父とともに西軍に属する。慶長5年7月26日に加賀金沢の前田利長は約20000の大軍を率いて金沢城を出撃し、西軍の丹羽長重の拠る小松城を攻撃するかに見えたが、急遽、これを避けて8月1日に加賀松山城に入城した。山口宗永はその危急を聞いて、大聖寺城の防備を堅め、北ノ庄城の青木一矩や小松城の丹羽長重に救援依頼の使者を派したが間に合わなかった。翌2日、利長は九里九郎兵衛・村井久左衛門を使者として大聖寺城に籠もる山口宗永に降伏を勧告した。宗永は理不尽な利長の攻撃に憤激して勧告を拒否した。前田勢は数を嵩にきて城攻めを行った。修弘は、父の籠城策に異を唱え、城近くに伏兵を潜ませてゲリラ戦による迎撃の指揮をとり先鋒の山崎長徳の軍勢を撹乱したものの数に勝る前田勢にかなわず城からの援護で城に逃れ、ただちに篭城戦の構えをとった。 前田勢も先鋒の山崎隊に加えて長連龍隊などの後続の軍勢も参戦して城の外周で激戦が展開された。山口修弘は果敢に出撃してしたたかに前田勢に被害を与えたが前田勢の鉄砲隊の一斉射撃を受けて、やむなく城内に退却する。大軍の前田勢はひた押しに押し進むが、山口宗永・修弘父子が率いる山口勢もひるまず果敢に反撃した。しかし、20000の大軍の前にわずか500余の兵しか要しない山口勢では敵うはずもなく、ついに宗永は塀の上から降伏の意思を伝えた。しかし、多くの兵を失った前田勢は復讐心に燃えてこれを許さず、城内に突入した。 8月3日の夕方に、前田勢の先鋒山崎長鏡家臣・木崎長左衛門を呼び、名乗った上で自刃をし首を打たせたという。山口宗永も自刃し、ついに大聖寺城は陥落した。山口修弘の墓は父の墓とともに石川県加賀市大聖寺神明町の全昌寺にある。修弘の弟の山口弘定は、大坂城に入城し、豊臣秀頼に仕え、大坂夏の陣で義兄の木村重成隊に属して井伊直孝隊と果敢に戦い討死している。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口修弘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|