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山口 光秀(やまぐち みつひで 1927年9月16日 - 2004年7月26日)は、日本の官僚。元大蔵事務次官、元東京証券取引所理事長。従三位勲一等瑞宝章。 == 来歴 == 東京府出身。1940年 東京都立一中入学。一中では杉山和男、筧栄一、岡島和男(日本住宅金融会長)らと同期。1944年10月 海兵76期入校、その後一高を経て、1951年に東京大学法学部政治学科卒業。同年、大蔵省入省。入省同期には、大原一三、加藤隆司(理財局長、国金局長)、清水汪(環境事務次官、内閣審議室長)、岡島和男、米里恕など。 草津税務署長、和歌山県財政課長、主計局主計官補佐、行政管理庁行政管理局管理官を経て、次官コースである大蔵省主計局主計官(法規、企画、農林)、理財局資金第一課長、大臣官房文書課長、近畿財務局長を歴任。1977年に主計局次長、翌年に経済企画庁長官官房長、1980年、高橋元次官時代に官房長就任。官房長時代には、ノンキャリアながら石井直一を印刷局長に抜擢したことで話題となった。また、“増税なき財政再建”路線を打ち出した第二次臨時行政調査会を前に、概算要求基準において予算の伸び率をゼロに抑えた「ゼロ・シーリング」の発案者だとされている。1982年に主計局長就任。1984年6月から1986年6月にかけて、大蔵事務次官を務めた。 のちの斎藤次郎次官時代に吉野良彦、平澤貞昭らの次官経験者らと共に日銀総裁候補となり、英会話の勉強も始めていたが、結局は松下康雄に収まった。現職時代から花柳界でも浮名を流すなどダンディで知られていた。 退官後は、1987年10月から海外経済協力基金(のち国際協力銀行)総裁、1990年に日本輸出入銀行(のち国際協力銀行)総裁。1994年から2000年まで東京証券取引所理事長に就任。以後、東証理事長には土田正顕が後任に座り、自らは資本市場振興財団理事長に就いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口光秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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