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山口移鎮(やまぐちいちん)は、幕末の長州藩(萩藩)が、藩庁となる居城を萩(萩城)から山口(山口城)へ移転したできごと。 == 概要== 萩は、慶長9年(1604年)の毛利輝元入城から259年(萩城築城からは254年)に渡り藩庁が置かれ人口4万人以上の西日本有数の城下町として発展していた。しかし、攘夷の決行に際して外国船による艦砲射撃に弱い萩〔明治9年(1876年)の萩の乱では、不平士族が明倫館に立て籠るが、艦砲射撃が有効活用されて早期鎮圧に至っている。〕から、南北に海を抱える領内(周防国・長門国)の統制がとりやすい〔山口移鎮 - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)〕〔目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第237回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹(ほっぷ 2015年4月10日号 - 地域情報新聞社)〕内陸の山口へ移鎮が検討され、先ず湯治を理由に藩主毛利敬親が山口中河原御茶屋に滞在する〔という建前をとりつつ建設地を選定し、最終的に鴻ノ峰が選ばれ、文久3年(1863年)7月20日に山口移鎮が発表された。 なお、関ヶ原の戦いに敗れて広島城を失った輝元が、新たな居城を萩に設けたのは江戸幕府の指示による。これについて、毛利氏は山口を本命の築城候補地としていたが、幕府により僻地に押し込められたという見方があり、山口移鎮はそれ以来の悲願であったと言われているが、残されている敬親の訓示からはその見解は成り立たないともされる〔目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第258回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹(ほっぷ 2015年9月4日号 - 地域情報新聞社)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口移鎮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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