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山口 素絢(やまぐち そけん、宝暦9年(1759年) - 文政元年10月24日(1818年11月22日))は、江戸時代中期から後期の円山派の絵師。円山応挙の弟子で、応門十哲の一人。 == 来歴 == 姓は橘、通称は貫次郎、武次郎。山斎と号す。字は伯陵、後に伯後。京都で、呉服商の次男として生まれる。祖父は俳人の山口羅人〔『倭人物画譜』に寄せられた秋里籬島の序文より。〕。円山応挙に絵を学び、祇園の袋町に住んでいた。『倭人物画譜』前編(寛政11年(1799年刊))三冊をはじめ、同年刊の『素絢画譜』六冊、『倭人物画譜』後編(文化元年(1804年)刊)三冊、『素絢画譜草花之部』(文化3年1806年刊)三冊、『素絢山水画譜』(文化15年(1818年)刊)ニ冊などを出版し、円山派画風の普及に努めた。一方で、寛政8年(1796年)には弟子仲間の渡辺南岳と共に、洒落本『養漢(おとこてかけ)裸百貫』の挿絵を描いている。文化元年(1804年)刊行の医学書『蘭寮方』では器物などの挿絵を担当。同書は、オランダの医学書の翻訳だが、その末尾は素絢の「紅毛の絵には『一体』があり、自分が学んだものとは趣が異なる」などと述べられている〔古典籍総合データベース 蘭療方 〕。文政元年(1818年)10月24日死去。享年60。墓は、京都三条の檀王法林寺。息子の山口素岳も絵師となった。 遺存作品は、比較的多い。優美な雰囲気を持つ日本風俗の美人画を得意としており、唐美人画を良くした兄弟子・駒井源琦と並び称された。素絢は往時の上方における時様風俗画を多く描いており、「遊女雪見図」や「遊女図屏風」などは浮世絵に近い内容を持つ点で注目される。一方、花鳥画にも佳品を残している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口素絢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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