|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 口 : [くち] 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening ・ 組 : [くみ] 【名詞】 1. class 2. group 3. team 4. set ・ 五 : [ご] 1. (num) five ・ 代 : [よ, しろ] 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation ・ 目 : [め, もく] 【名詞】 1. (1) item 2. division 3. class 4. (2) piece (in Go) ・ 跡 : [せき, あと] 【名詞】 1. (1) trace 2. tracks 3. mark 4. sign 5. (2) remains 6. ruins 7. (3) scar ・ 跡目 : [あとめ] 【名詞】 1. headship of a family 2. family property ・ 問 : [もん] 【名詞】 1. problem 2. question ・ 問題 : [もんだい] 【名詞】 1. problem 2. question ・ 題 : [だい] 1. (n,vs) title 2. subject 3. theme 4. topic
山口組五代目跡目問題(やまぐちぐみごだいめあとめもんだい)とは、昭和63年(1988年)6月ごろから平成元年(1989年)4月20日まで続いた、「五代目山口組組長を誰にするのか」という問題。山口組内部で、四代目山口組若頭・渡辺芳則を支持するグループと、四代目山口組組長代行・中西一男を支持するグループが対立した。 ==山口組五代目跡目問題の経緯== 昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組若頭補佐・宅見勝(宅見組組長)、山口組本部長・岸本才三(岸本組組長)、二代目吉川組・野上哲男組長らが、山口組五代目に、山口組若頭・渡辺芳則(二代目山健組組長)擁立に動き始めた。さらに、徳島市の心腹会・尾崎彰春会長、名古屋市の益田(啓)組・益田啓助組長、横浜市の益田組・益田佳於組長、尼崎市の大平組・中村憲人組長、尼崎市の古川組・古川雅章組長、伊丹市の松野組・松野順一組長、長野市の近松組・近松博好組長、名古屋市の弘道会・司忍会長が、山口組五代目に、渡辺芳則を推した。竹中組・竹中武組長(四代目山口組・竹中正久組長の実弟)は、山口組執行部に「誰が山口組五代目になっても、組内の調整には協力するが、五代目と盃をするかどうかは、別物である」と宣言していた。 同年暮れ、野上哲男は、渡辺芳則から「渡辺芳則が五代目山口組組長となった場合、組長としての発言をしない」という言質を引き出した。 同年12月29日、渡辺芳則は、兵庫県姫路市御着の竹中正久の実家を訪ね、竹中武と会談した。渡辺芳則は、竹中武に、山口組執行部の増員を相談し、了解を得た。また、渡辺芳則は、竹中武に、中西一男が一和会・山本広会長と接触して山本広引退工作を進めていることを話し、中西一男の山本広引退工作を止めてもらうように依頼した。竹中武は、中西一男説得を引き受けた。竹中武は、渡辺芳則に、「竹中正久の五回忌(平成元年(1989年)1月27日)に、山口組幹部一同が、竹中正久の実家で落ち合い、親睦を深める」ことを提案した。渡辺芳則は、提案に賛成した。その後、竹中武は、中西一男にも「竹中正久の五回忌に、竹中正久の実家で、山口組幹部一同が落ち合い、親睦を深める」ことを提案し、了解を得た。 このころ、宅見組・宅見勝組長らは、益田(佳)組・益田佳於組長、小西一家・小西音松総長、伊豆組・伊豆健児組長らを説得し、渡辺芳則の五代目山口組組長就任を了承してもらった。 平成元年(1989年)1月27日、山口組本家で、直系組長会が開かれた。宅見勝らは五代目山口組組長決定の緊急動議を出そうとしたが、中西一男を五代目山口組組長に推す人らに、山一抗争が完全終結していないことを理由に反対されて、緊急動議を出せなかった。 同日、姫路市御着の竹中正久の実家に、中西一男、岸本才三ら山口組幹部が集まり、法要が営まれた。しかし、渡辺芳則や宅見勝らは、法要に欠席した。 同年2月11日、神戸市の料亭「いけす」で、近松博好の呼びかけにより、渡辺芳則と竹中武の会談が行なわれた。近松博好と岸本才三が同席した。近松博好と岸本才三は、五代目山口組組長に渡辺芳則、山口組若頭に竹中武を望んでいた。 その後、渡辺芳則は、山口組組長代行補佐グループから、「自分が五代目山口組組長になった場合、顧問とする。自分との盃はなしとする」という条件で、渡辺芳則支持を取り付けた。その後、山口組舎弟グループからも、渡辺芳則支持を取り付けた。 このころ、山口組各直系組長宛に、「任侠道新聞」1号、2号が送られた。1号では、「渡辺芳則の五代目山口組取りは失敗する」「宅見勝が嘘をつき、渡辺芳則の五代目山口組組長就任を画策している」と書かれていた。2号では「山口組に謀反を企む者に、渡辺芳則、宅見勝、岸本才三の他、野上哲男がいた」と書き、「現山口組執行部の解体と山口組五代目問題の棚上げ」を要求していた。 同年2月27日、山口組定例総会で、竹中武の山口組若頭補佐就任が発表された。 同年3月27日午前、古参組長数人が、山口組執行部会への出席を申し入れた〔普段は組長代行補佐でも、山口組執行部会には出席しない〕。 同日、山口組執行部会で、中西一男と渡辺芳則の五代目山口組組長への立候補が決められた〔出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.148〕。 同年4月6日、渡辺芳則と中西一男が、山口組五代目決定に向けての話し合いを始めた。 同年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決まった。山口組舎弟会には、山口組二代目森川組・矢嶋長次組長も出席していた。 同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。渡辺芳則と中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。 同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口組五代目跡目問題」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|