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山口組四代目跡目問題(やまぐちぐみよんだいめあとめもんだい)とは、昭和57年(1982年)2月4日から昭和59年(1984年)6月5日午後3時まで続いた、「四代目山口組組長を誰にするのか」という問題。山口組内部で、竹中正久を支持するグループと山本広を支持するグループが対立した。 ==山口組四代目跡目問題の経緯== ===山本健一若頭死去→山本広組長代行・竹中正久若頭就任へ=== 昭和57年(1982年)2月4日、山口組若頭・山本健一が、大阪府大阪市生野区巽南の今里胃腸病院で肝硬変と腎不全を併発して死去。前年7月23日に田岡一雄(三代目山口組組長)が死去し、後継者として最有力と思われていた山本健一も死去したことで、後継の組長の人選をめぐり以後山口組内は大揉めとなる。 山本健一の山口組組葬は、4月27日に田岡邸の隣で行なわれた。施主は田岡三代目組長の未亡人である田岡文子、葬儀執行委員長は山口組筆頭若頭補佐・山広組・山本広組長(後の一和会会長)、葬儀執行副委員長は小田秀組・小田秀臣組長、中西組・中西一男組長(後の四代目山口組組長代行)、竹中組・竹中正久組長(後の四代目山口組組長)〔3月13日に姫路拘置所から保釈されていた。〕、益田組・益田芳夫組長(後の益田佳於)、加茂田組・加茂田重政組長(後の一和会副会長兼理事長)、豪友会・中山勝正会長(後の四代目山口組若頭)、溝橋組・溝橋正夫組長の7人がそれぞれ務めた。葬儀出席者は900人だった。 葬儀を済ませた後に田岡文子〔6月14日に兵庫県警が田岡文子を「三代目姐」と認定している。〕は、山本広に山口組若頭就任を要請したが、山本広はこれを断り組長代行就任を希望。6月5日付で組長代行に就任した。また、小田が中山勝正を山口組四代目に推したが、これも中山勝正が断ったため以降小田は山本広を推すことになる。その一方で田岡文子は、竹中正久に若頭就任を要請。当初、竹中は若頭就任を辞退し中山を若頭に推薦したものの、他の直系組長が中山の若頭就任に反対したため中山勝正の若頭就任は見送られた。そこで再度田岡文子が竹中に若頭就任を要請し、竹中から承諾を取り付ける。しかし、溝橋が「組長代行だけを置き、若頭は決める必要はない」と主張したことから、結局竹中は若頭就任を止めるばかりか幹部会への出席をも拒否。14日には山本広が電話で竹中に若頭就任を説得するものの、竹中はこれも拒否。山本広は田岡文子に相談し、田岡文子から竹中正久に電話をして田岡邸で話し合いことを決めた。竹中は、二代目細田組・細田利明組長とともに田岡邸に赴き、田岡文子との話し合いの上、6月15日午前3時に若頭就任を再度承諾する。15日の午後1時に田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれ、山本広・小田・中西・竹中・中山・溝橋が出席、竹中の若頭就任が了承された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口組四代目跡目問題」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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