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山口 重信(やまぐち しげのぶ、天正18年(1590年) - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は江戸時代の武将。山口重政の長男。母は小坂雄吉の娘。正室は石川康通の娘(あるいは石川忠義の娘)で大久保忠隣の養女。幼名は熊丸、長次郎。 尾張国清洲で誕生。慶長2年(1597年)に徳川秀忠に謁見する。慶長14年(1609年)12月27日、従五位下、伊豆守に叙任。その後、大久保忠隣の養女を正室に迎えたが、その縁談が正式な幕府の許可を受けていないものとされたため、慶長18年(1613年)1月6日に父・重政は改易され、父と共に武蔵国入間郡越生庄の龍穏寺に蟄居させられた。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に伴い戦功を立てようと父と共に大坂に向かうが、箱根の関所で止められたため一旦龍穏寺に帰った。そして、関所の通過が容易な商人に扮装し、東山道経由で大坂に赴くが、既に和議が成立していたため再び龍穏寺に帰った。 そして翌年の大坂夏の陣では井伊直孝の軍に属して奮戦するが、木村重成に討ち取られて戦死。享年26。法名は傑山宗英大雄院。 == 関連項目 == *龍穏寺(埼玉県入間郡越生町)-山口重政が建てた山口重信の墓がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山口重信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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