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山吉(小牧)〔佐々木(1983) p439〕盛侍(やまよし もりひと)、通称新八郎(しんぱちろう)は吉良上野介の家臣〔 、近習〔。(吉良義周の中小姓〔)。 赤穂浪士討ち入りの時負傷。その後吉良義周が幽閉されたとき左右田孫兵衛とともに付き従い、義周が亡くなるまで面倒をはじめとする見た〔。 == 生涯 == 寛文11年(1671年)、米沢藩上杉家の物頭・山吉七郎左衛門盛俊(50石)の次男として生まれる。母は山田九右衛門盛政の娘。山吉家は戦国時代には越後三条城主として上杉謙信に仕えた家柄であるが、盛侍の祖父は米沢藩士深澤家からの養子であり、その養父・山吉源左衛門盛親も山吉家の本流(山吉豊守・山吉景長らの系統)に近い人物ではないようである(『上杉家御年譜』所収の御家中諸士略系譜より)。天和4年(1684年)に父が死去すると、家督は長兄の盛富(権之丞)が継いだ。 元禄5年(1692年)8月29日、上杉綱憲の次男で吉良家に養子に入っていた吉良義周付きの小姓を命じられ、9月11日に江戸吉良邸へ入り、吉良家では30石5人扶持を与えられている。元禄8年(1695年)6月23日には喜連川家の騒動を取り静めるために吉良家より派遣され、功績があった。 上杉家家臣がまとめた『大河内文書』によれば、元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士による吉良邸討ち入り時に最も活躍した吉良家臣だという。討ち入り時に長屋から飛び出ると、いきなり浪士が槍を構えていたので部屋に戻り、脇差をとって戦闘に参加。3人を相手に戦い、1人(近松行重であろう)を池に叩き落し、また1人を縁側に切り伏せたが、後ろから槍でつかれ、別の1人に鬢先より口脇まで斬られ一度倒れた。しばらくして再起し、義周のもとへ走るがいないので、奥を探そうとすると、2人の浪士と出会い再び斬られて倒れるも、盛侍は死なず一命を取り留めた。その際に顔に大きな傷を負ったため、傷を隠すため髭を蓄えることを特別に許されていたともいわれている。 吉良家が改易され、義周が諏訪藩お預かりになると左右田孫兵衛とともにこれに従い高島城へ入った。宝永3年(1706年)1月に義周が死去すると米沢へ戻り、6月9日から5石3人扶持で再び上杉家に仕官し、五十騎三番組に編入された。享保5年6月5日には勘定頭となり50石、元文4年(1739年)1月には三十挺手槍頭に就任し150石をそれぞれ加増され、都合200石を領した。寛保4年(1744年)2月8日には三十人頭となる。宝暦2年(1752年)2月11日に隠居して、子の伊八郎盛起に家督を譲った。 宝暦3年(1753年)7月28日に死去。照陽寺に葬られた。法名は玄亮院殿無性本然居士。享年83。室は行方左五左衛門兼秀の娘。 なお、明治時代に暗殺直前の大久保利通に面会した山吉盛典(福島県県令)は末裔である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山吉盛侍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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