|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 名 : [な] 【名詞】 1. name 2. reputation
山名 持熙(やまな もちひろ、生年不詳〔兄・満時の生誕年(応永3年(1396年))~弟・持豊の生誕年(応永11年(1404年))の間に生まれているのは確かである。〕 - 永享9年(1437年)7月)は室町時代の武将。室町幕府侍所頭人を務めた山名時熙の次男。従五位下刑部少輔。兄に山名満時、弟に山名持豊(宗全)がいる。 == 生涯 == 元服時に将軍・足利義持と父・時熙より1字ずつ賜って持熙と名乗る(弟の持豊が元服した応永20年(1413年)以前のことと考えられる。)。同26年(1419年)11月27日、従五位下刑部少輔に任じられる。翌年、家督後継者と目されていた兄・満時が没したため、この後、弟の持豊と家督を争うこととなる。持豊が父・時熙の側にいて行動することが多かったのに対して、持熙は対照的に将軍・義持の近習衆の一員として幕府に仕え、義持が没した際は、細川義之とともに納骨に従っている。新将軍・義教にも持熙は引き続き近習として仕え信任を得る。応永35年(1428年)、父・時熙が一時重篤な状態となり、後継者に持豊を指名しようとした際、義教は持熙を不憫に思い、三宝院満済に対して、管領・畠山満家と相談し、時熙を翻意させるよう命じている〔『満済准后日記』4月23日条。〕。この時は、時熙の容体が回復したため、後継者の決定は行われなかった。 しかし、永享3年(1431年)5月、持熙は義教の勘気を蒙り、家督相続の後ろ盾を失う〔『満済准后日記』5月6日・24日条によれば、持熙の振舞いが義教の機嫌を損ねたというが、詳細は不明。〕。義教は、時熙の心中を思うと持熙を簡単に処罰することは憚られるので、このまま出仕させるか追放するかは時熙の判断に任せるとした。これにより持熙は京都を追われたようである。翌年からは持熙に代わって持豊が垸飯に出仕、更に永享5年(1433年)8月には義教から持豊の家督相続を認められている。永享7年(1435年)7月に時熙が没すると、持熙・持豊兄弟の確執が噂され、年末には持熙が上洛するという風説が流れている。 永享9年(1437年)7月11日、大覚寺義昭が大覚寺を出奔する事件が起きるが、この時、持熙が義昭に従っていたという噂が流れる〔『師郷記』7月12日条。〕。また、義昭の叛乱に「山名宮内少輔」が味方しているという噂も流れた〔『看聞日記』7月23日条。〕。そして、噂通り持熙は挙兵し、7月25、26日に山名氏分国の一つ備後国へ乱入、国府城に立て籠もった〔『薩戒記』8月1日条。〕。しかし、持豊の軍勢に敗れ持熙は討死、7月30日に首級は京都へ送られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山名持熙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|