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山城 新伍(やましろ しんご、1938年11月10日 - 2009年8月12日)は、日本の俳優・司会者・タレント・映画評論家・映画監督。本名:渡辺 安治(わたなべ やすじ)。左利き。元妻は花園ひろみ、娘は南夕花。所属事務所は東映→沢井プロダクション→(株)サイプロダクション→(株)プロダクションノータイトル→(株)オフィス・タッチ == 来歴 == * 1957年 東映ニューフェイス第4期生 * 1959年 『風小僧』第1部 疾風之介役でデビュー。同年、第2部で主演。 * 1960年 『白馬童子』で主演し、人気を博す。 * 1966年 女優の花園ひろみと結婚。 * 1975年 『独占!男の時間』でバラエティに進出。 * 1976年 日清食品『どん兵衛』のCMに出演。川谷拓三との名コンビによるCMで、14年続いたロングセラーCMとして人気を博す。 * 1981年 フジテレビ系「アイ・アイゲーム」で伏字を「チョメチョメ」と表現し流行語になる。 * 1985年 花園ひろみと離婚。 * 1991年 花園ひろみと2度目の結婚。これを『新伍Niタッチ!』でゲスト出演した梅宮辰夫に発表され、更に彼から祝福のキスを受ける。 * 1999年8月 花園ひろみと2度目の離婚。その後も同居していたが、2001年以降は一人暮らし。 * 2005年 糖尿病で入院。メディアなどには出演せず、事実上の引退状態となる。 * 2009年8月12日15時16分、誤嚥性肺炎で死去。。 京都府京都市で開業医の子として生まれる。京都府立山城高等学校卒業。浜村淳、元阪神タイガース監督吉田義男は高校の先輩、サッカーで活躍していた釜本邦茂、毎日放送アナウンサー野村啓司は高校の後輩である。高校では、ラグビー部に入っていた。大学受験時、大阪医科大学、関西医科大学を受験したが、いずれも不合格だった。 医師の道を諦め、時代劇スターに憧れエキストラをやった後、東映ニューフェイス第4期に応募して、1957年に東映へ入社。同期には佐久間良子・水木襄・室田日出男・曽根晴美・花園ひろみ・山口洋子がいる。1958年に映画『台風』でデビューし、翌年にはテレビ時代劇『風小僧』で初主役となり、さらには1960年にテレビ時代劇『白馬童子』で主演を務め、子供たちの人気者となる。子供向けの時代劇だったものの、都会派で端整な顔立ちのスマートな青年が忍者のような見映えする白装束で白馬に跨る姿は、立ち回りの切れの良さもあって大人からも人気を博した。 当時は映画の全盛期でテレビは黎明期だったので、映画会社はテレビを軽視し、ドラマには無名の俳優ばかりが出演していた。しかし、東映の俳優による公開野球大会が行われたとき無名若手俳優の山城が登場すると並居る大スター以上の拍手が客席から沸き起こった。また当時映画監督や俳優にはテレビの仕事をする監督や役者は二流だという認識があったため、嫉妬からいわれのないイジメを数知れず受け、長年俳優として辛酸をなめることとなり、映画では脇役が多かった。 1960年代に入ると黒澤明や勝新太郎の座頭市などの影のあるリアルな時代劇に人気が集まり、勧善懲悪を主軸に置いた白塗りの正義の味方が登場する東映時代劇の人気は衰退。1963年を境に東映は時代劇から現代劇へと重点を置き始めると数多くの任侠映画やギャング映画などに出演する事となる。1968年より始まった不良番長シリーズでは軟派な役柄を演じると共に東映ポルノにも精力的に顔を出し続け、そんな頃に監督の深作欣二と交友を深め、二枚目からアクの強い個性派にイメージチェンジを図り、1973年の仁義なき戦いを始めとした東映実録路線で再び頭角を現すようになった。そのジャンルを選ばぬ姿勢を評して「ミスター・プログラムピクチャー」と呼ばれた。 その後、1970年代から活躍の舞台をテレビに移し、その辛らつでいながら温かみのある語り口からバラエティ番組でもいかんなくその個性を発揮し、機転の良さとコメディー・センスと関西弁の話術で、司会やパネラーとして活躍。作家の小林信彦からその司会ぶりを「日本人離れした話術」と賞賛された〔小林信彦『日本の喜劇人』新潮文庫、1982年、pp.306-307。〕。2時間ドラマでは主演作を多く持った。 1970年代初期、3年ほど干されていた時期がある。吉田豪によるインタビューによると「海外で銃を買って帰ったため」だという。 東映では若山富三郎に気に入られ、その影響を受けて、俳優仲間、特に映画『仁義なき戦い』での共演者を中心に面倒見のいいところがあり、仲間たちのバラエティ進出をフォローしていた向きがある。認めないうちは非常に厳しいが、いったん認めると重用するところがある。若山についてはその役者馬鹿ぶりを『おこりんぼさびしんぼ』という著書にまとめて一部で評判を呼んだ。 本人はテレビ出身のコンプレックスが強く、映画への想いは熱い。俳優・タレント活動以外にも、映画評論、映画監督もこなしている。監督としては、にっかつロマンポルノのヒット作『女猫』(めねこ)、『双子座の女』のほか、『せんせい』、『やくざ道入門』、『本日またまた休診なり』、『梁山泊 ファミリー』といった作品がある。 映画評論では、1979年10月から2002年3月までサンテレビで放送された『火曜洋画劇場』で司会を行い、歯に衣着せぬ映画愛にあふれる言葉で映画の批評を行っていた。東京12チャンネルの『木曜洋画劇場』でも映画解説者を務めたが、1977年の『独占!男の時間』最終回で東京12チャンネル批判をしたことが災いし(当時東京に進出したばかりの笑福亭鶴瓶が番組ディレクターの傲慢な態度に腹を立て、同局の社長が大切にしていた錦鯉を踏み殺すという暴挙に出て、同局に出入り禁止になった鶴瓶をかばったことも原因だった)、すぐに降板となった。 1982年に内藤誠監督と脚本の桂千穂が個人出資で筒井康隆原作を映画化した『俗物図鑑』では反吐評論家役で出演。当初は主演の話もあったが、原作者に容姿が似すぎているためNGとなったという。替わって主演した平岡正明は「思想の似た者は容姿も似る」とコメントしている。この映画は結局、平岡以下本物の評論家や文化人が大部分のキャストを担うことになった。ただし、山城の出演は多忙のため不自然に姿が見えなくなる場面が出てくるなど限定的であり、超低予算から考えても当初山城主演説は平岡が後からウケ狙いまたは照れ隠しで作った話にすぎない可能性もある。 1980年代前半、フジテレビ・日枝久編成局長(現・会長)に抜擢され、女子大生番組の司会者として女子大生ブームを牽引した。同ブームの中共演した青山学院大学の川島なお美(同じ誕生日)は山城の愛人であると噂された。同じ時期に日活ロマンポルノの監督に進出し、自身がファンだった清純派女優・早乙女愛を口説き落として自らが監督を務める『女猫』に出演させ、同作品は日活ロマンポルノの歴代売上第3位になるという大ヒットを記録した。早乙女愛も山城の愛人の一人だと噂され、この頃が山城新伍の人生において“公私にわたる最盛期”であった。その他にも山口美江から「山城に強要された〔「週刊ポスト」で「私を襲った最低な男」のインタビューにて、山口美江は「白馬童子」を演じた俳優Aが嫌いである事を語っている(但し、Aの名前を伏せて掲載)。〕」と暴露されるなど、こうしたプレイボーイぶり、女癖の悪さが、このあと妻・花園ひろみとの離婚・再婚・再離婚へとつながってゆく。 プロ野球は地元球団である阪神タイガースのファンであり、サンテレビのプロ野球中継『サンテレビボックス席』にゲストとして呼ばれたこともある。 1990年代まではテレビ番組の司会やクイズ番組のパネラーとして活躍し、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』で共演した逸見政孝とは、同じ関西出身である事や番組出演がきっかけで親友となり、彼の葬儀では「春になったら一緒に憎まれ口を叩きながら(『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の特番での)司会をやりたかったのに、残念なものだ」と弔辞を読み涙した。また日曜19時枠で『クイズ・マネーイズマネー』の司会を務め、同番組が終了してしばらく経った後、当時裏番組だった『クイズ!!ひらめきパスワード』で2代目司会者を務めるという事があった。『クイズ!!ひらめきパスワード』の場合、大学の後輩でもあるMBSアナウンサーの野村啓司から引き継いでいる。 演じる役の幅は、『不良番長』シリーズなどでの超C調なキャラクターから、『付き馬屋おえん』などでの無口で職人肌の男まで広く、どの役でも圧倒的な存在感を見せていた。 司会を務めた『独占!男の時間』(東京12チャンネル - 現・テレビ東京)では、当時同局のアナウンサーでその実力を認めていた小倉智昭を起用した。その後、人気番組である一方で「ワースト番組」上位にも挙げられていたこの番組への出演を巡って小倉は上層部と衝突し、フリーアナウンサーへ転向するが、「山城さんとの出会いがなければ今日ここに座っていることもなかった」と述懐している。 かつて島田紳助とは『新伍&紳助のあぶない話』で共に司会を務め、バラエティ番組で共演するほど仲が良かったが、一時期関係が悪化したことがあった。その後は2002年10月の『開運!なんでも鑑定団』で共演しており、関係は修復されていった。紳助は山城の訃報に接し「大先輩なのにいつも『紳助ちゃん』と呼んでいただき、優しくしてもらいました」と惜しんでいる。『新伍&紳助のあぶない話』で岡江久美子がゲスト出演した際、『クイズ‼ひらめきパスワード』の事をネタにしたことがある。 1992年1月に暴力団の組長の娘の結婚式で仲人を務めて、問題だとして集まった芸能レポーターに「父親がヤクザの娘は幸せになってはいけないのか」と反論した。(余談ではあるが、前述の島田紳助は暴力団との交際で山城の死去から2年後の2011年8月に芸能界引退) 〔「芸能界スキャンダル!!汚染 山城新伍マル暴仲人「妻も賛成した!オレは間違っていない!」」『週刊女性』1992年2月4日号。〕〔「うわさの真相 山城新伍結婚式仲人事件 正論と名演技で堂々の反論 しかし疑問の残る部分も!」『噂の眞相』1992年3月号〕〔宮崎学、日名子暁「アウトロー対談 芸能人という突破者」『別冊宝島396 芸能人という生き方 波瀾万丈!懐かしのスターたちが見た「天国と地獄」』宝島社、1998年、p.248. 〕。 2005年12月25日、『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ系)に出演。糖尿病を患っていたことを告白。また、鶴田浩二、若山富三郎、菅原文太、里見浩太朗、逸見政孝とのエピソードについて語った。糖尿病を患ってからは痩せ、テレビ番組の露出を控えていた。 2007年1月2日・1月9日合併号の週刊女性にて『「食べこぼしまみれ」徘徊の日々』と題された記事において、デパートでカレーライスを食べこぼしたり、自動販売機に吠えるなど奇行が報じられた。この記事に対し、自ら『ザ・ワイド』に出演し「記事はでたらめ、食べこぼしする癖があるが食べこぼしはちゃんと自分で始末している」と反論していた。 2007年5月6日、朝日新聞日曜版で写真入りで近況が伝えられる。糖尿病はコントロールできているとのことで、容色もふっくらとし、現場復帰への意欲を述べていた。医師をしていた父も重度の糖尿病で亡くなったとのことで、糖尿病は「遺伝」だとコメントしていた。 2008年8月28日発売の『週刊文春』9月4日号で『「このまま消えてしまいたい」山城新伍直撃「老人ホーム」最後の日々を語る」』と題された記事において、同年6月に老人ホームに入居し老後を送っていると報じられた。そこでは「芸能界に戻る気はない」、「みんな自分の事を忘れている」、「娘には会いたい」と言うことでテレビに出演することを期待したが、糖尿病の悪化により車椅子での生活を余儀なくされ、老人性鬱病、認知症なども患っており、復帰は困難という状況だった。家族に捨てられ(後述)老いと病気で衰えた姿を見られたくないと旧友の梅宮辰夫、松方弘樹らの見舞いの訪問を頑なに拒んだ。 2009年8月12日、東京都町田市の特別養護老人ホームで嚥下障害による肺炎で逝去。享年70。戒名は「白慧院彰芸日安居士(びゃくえいんしょうげいにちあんこじ)」。白は代表作の「白馬童子」から取ったという。遺骨は金閣寺と京都市内の寺院に分骨して納骨されることとなった。喪主は実弟が務めた。 同年10月9日、梅宮辰夫、松方弘樹らが発起人となった「お別れの会」が都内のホテルで催され、長門裕之、菅原文太、中村玉緒、地井武男、和田アキ子、渡瀬恒彦、小林稔侍、赤木春恵、山本陽子、五月みどりら136人が出席し、故人を偲んだ。 なお、この時参列していた長門裕之が2011年5月に、地井武男が2012年6月に、菅原文太が2014年11月にそれぞれ相次いで急逝している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山城新伍」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shingo Yamashiro 」があります。 スポンサード リンク
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