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幸福会ヤマギシ会(こうふくかいヤマギシかい)とは、とは農業・牧畜業を基盤とするユートピアをめざす活動体(農事組合法人〔近藤2003、287頁。〕)。 通称は「ヤマギシ会」「ヤマギシ」。1953年(昭和28年)、山岸巳代蔵の提唱する理念の社会活動実践母体「山岸式養鶏会」として発足、約10日後に「山岸会」に改名〔米本1999、301頁。〕、1995年(平成7年)に名称を「幸福会ヤマギシ会」と変更〔。 所有の概念を全否定し〔斎藤1997、313頁。〕、「無所有一体」の生活を信条としている。アーミッシュと並べて例えられる場合もある。 売り上げ規模では農事組合法人のトップに位置している〔「週刊東洋経済」2012年7月28日号〕。 ヤマギシズム社会を実践する場であるヤマギシズム社会実顕地が全国に26か所あり、約1500人が共同生活を営んでいる〔「FACTA」2013年5月〕。また、ブラジルやスイス・韓国・オーストラリア・アメリカ合衆国・タイなど日本国外にも6箇所〔の社会実顕地があり、社会実顕地に未参画の会員が5万人ほどいるとされる〔斎藤1997、319-320頁。〕。 ヤマギシズム社会実顕地では野菜や果物、家畜などが育てられており〔米本1999、29頁。〕、農産物加工品を全国販売している〔。最近では、「エコビレッジ」の先駆者として評価されることもある〔。 == 活動 == 特別講習研鑽会(ヤマギシズムの理念や思想を体験的に知るために参加者全員が車座になってひとつのテーマを深く議論する「研鑽会」が主)と呼ばれる一週間の合宿形式の講座を受講すると会員となることができる〔米本1997、46-47頁。〕。会員は「研鑽学校」と呼ばれる2週間の講習を受講することでヤマギシズム社会実顕地に参画(入村〔斎藤1997、312頁。〕)する資格を得ることができる〔米本1997、47頁。〕。実顕地における生活は私財をひとつ財布に入れ共に研鑽生活を営むことが柱となっている。 実顕地の経済は、各実顕地で生産された農産物の販売による利益が中心である。1988年(昭和63年)に設立したブラジル実顕地では1991年(平成3年)から開拓が始まった1000haに及ぶオレンジ園があり、秋田県大潟村では水稲栽培、80万羽規模の採卵養鶏など大規模農業にシフトしている。経営形態は、野菜や各種畜産から販売を組み合わせた複合農業であり、農事組合法人の形をとっている〔。 ジャーナリストの斎藤貴男によると、幸福会ヤマギシ会の年商は豊里実顕地だけで、全盛期には約140億円を数えていた〔斎藤1997、324頁。〕。その実態を見ると、全商品の自家生産を謳いつつ、原料や加工を外部に頼っているケースもある〔斎藤1997、344-346頁。〕。 フリーライターの近藤衛〔近藤2003、227頁。〕やジャーナリストの米本和広〔米本1997、108-114頁。〕によると、生産物の販売は、会員が運営する講座や農業体験、体験合宿、さらにヤマギシズム特別講習研鑽会へと人々を勧誘するきっかけともなっている。 真木悠介(見田宗介)東京大学名誉教授は自著『気流の鳴る音―交響するコミューン』 (ちくま学芸文庫)のなかの「紫陽花と餅」という項のなかで、自身が特講に参加し、ヤマギシ会についてこう述べている。 「学生のころ「ユートピアの会」という研究会で、山岸会という団体の人を招いて話をきいたことがある。私が興味をもったのは、この団体では労働が強制されないということであった。社会的な必要労働をどのように配分するかということは、未来を構想するときの基礎的なネックの一つだ。近代市民社会=資本制社会のように、「飢えの鞭」=生活の必要性をとおしてこれを特定の階級に強制するのか、中国の社会主義のように『自民への奉仕』といった道義的規範意識をテコとするのか、あるいはソ連の社会主義のように、利潤動機と名誉心、権力による強制とイデオロギー的規範意識等々を組合わせて動員するのか。しかし労働が自発的になされる他は強制されないという世界は、マルクスの終局的なユートピアとしてイメージはもっていたものの、具体的なかたちとしては当時の私の想像をこえるものであった。山岸会は労働を強制しないという神話を打破するために、絶対に働かないという決心を固めて山岸会にいった男が、五十七日ほど釣りばかりしてすごしていたが、つまらなくなってニワトリの世話なぞしはじめという話もきいた。少し出来すぎた話のような気もするが、たとえ事実でなく寓話であるにせよ、そのようなことを、少なくとも原理としタテマエとする集団が実在することを、私は心強く思った。しかし一方その人の話の中には、その当時の私にとってうけいれがたい所説も多かった。たとえば山岸会は、ニワトリの独自の飼い方で有名なのだが、それは一般の鶏舎のように一羽一羽ケージにとじこめる飼い方ではなく、平飼い社会式といって自然に近い飼い方をする。一般の鶏舎でそのまねをすると、強いニワトリが弱い仲間をつついて傷つけたりエサを独占したりして決してうまくいかないのだが、山岸会のニワトリは仲がいいのは、飼っている人間どうしが仲がいいからだ、などといわれる。人間の共同性とニワトリの共同性とのこの因果づけの仕方は、ばかばかしいこじつけとしか思われなかった。結局すぐに行ってみる気にはならずに十年ほどもすぎて、ふとしたことから、一週間の「研鑽」に参加する機会をもった。「強制なき労働」のシステムが存在するのかどうか、はそのときもわからなかった。しつこく調査すれば答えをだすことはできただろうが、そういう関わり方をしたいとは思わなかった。むしろこのとき私が中で体感したことは、私がばかばかしい反面だと思っていた、人間と自然との連動性のようなものの方にこそ、事の本質があるだということだった。人間の共同性とニワトリの共同性とを、それぞれ抽象してとりだしてきて、二変数の関数関係のようにげんみつな因果連関があるわけではない。しかし人間の自然にたいする感触が、他の人間への対応の中に反映し、このような人と人との関係が逆に自然を取扱う仕方にあらわれ、それが植物の育ち方とか動物の相互の関係のうちに反映し、それがふたたび人と人との関係を形成している、そのような連動関係が幾重にも存在すること。「人間がなごやかだからニワトリもなごやかだ」という言い方は、げんみつな因果連関の表現ではなく、自然と人間のこのような連動の総体性の寓話的な表現として納得することができる。殺風景な社会はかならず自己の周囲に殺風景な自然を生み出す。草や木や動物たちとの交歓を享受する能力は、同時に人間の関係性への味覚をしなやかに発達させる。労働が強制されない社会が実在するか否か、私は今でもしらない。しかしもしそのような社会が存在しうるとすれば、すなわち労働がそれ自体よろこびとして、マルクスが書いているように、人間生命の発現としてありうるとすれば、そこでは必ず、人間と人間との関係のみでなく、人間と自然との関係が根本から変わらねばならないだろう。あるいは人間の存在感覚のようなものが、市民社会の人間とは異った次元を獲得しなければならないだろう」〔『気流の鳴る音―交響するコミューン』 (ちくま学芸文庫、2003年3月10日発行)18頁〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「幸福会ヤマギシ会」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yamagishi movement 」があります。 スポンサード リンク
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