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山岸 尚家(やまぎし なおいえ、生没年不詳)は、戦国時代の武将、越後上杉家臣。深沢尚重〔「御家中諸士略系譜」による。「越国諸士記」では深沢刑部の子とする。藩政史研究会編『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』では、深沢刑部利重の子弥七郎としている。〕の次男。前名は深沢弥七郎〔「御家中諸士略系譜」では弟深沢貞重の前名を弥七郎としている。〕。通称・中務少輔。 上杉景勝配下の上田衆出身。妻は長尾景明の娘。 文禄元年(1592年)黒滝城主山岸右衛門が朝鮮出兵中に没した際、右衛門の子忠兵衛がまだ幼かったのでその家督を継いだ。なお忠兵衛は後に母方の叔父にあたる山岸民部の跡を継いでいる。 「御家中諸士略系譜」によれば、文禄3年(1594年)従五位下に叙されたという〔慶長16年(1611年)、土井利勝から米沢藩への諸大夫の員数尋ねには、直江兼続、本庄繁長の二名のみ記されている。〕。「文禄三年定納員数目録」では、黒滝城主・2277石とされ、会津時代は5500石を知行した。慶長3年(1598年)8月、景勝の命により、岩井信能・広居忠家とともに謙信の遺骸を会津に移葬した。 米沢移封後は1833石を知行し、御側勤として景勝に近侍した。慶長17年(1612年)には、直江兼続・安田能元・岩井信能・水原親憲・平林正恒ら重臣たちとともに十七箇条の家中法度を制定している。慶長19年(1614年)大坂冬の陣に従軍、元和3年(1617年)の景勝の上洛にも供奉した〔『慈性日記』元和3年8月23日条、9月17日条には、景勝を訪問した慈性が尚家に音信を申し入れた記事がある。〕。 元和9年(1623年)の景勝死後、その子上杉定勝にも引き続き仕え、江戸留守居役に抜擢されている。しかし寛永元年(1624年)長男山三郎が命に背いて出奔したために定勝の勘気を被って改易となり、亀岡西来院に蟄居した。 家督は次男の家久が継いでいる。 == 参考文献 == *弥彦村教育委員会『弥彦村史』 *『上杉家御年譜』景勝公 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山岸尚家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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