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山崎 栄(やまさき えい、1894年 - 1905年6月17日)通称 お栄は、明治期の踏切番の家の少女である。1905年6月、11歳にして踏切事故で亡くなった〔福岡日日新聞 明治38年6月20日 第4面〕〔『九州の鉄道の歩み』p.29〕〔『続・事故の鉄道史』、p36〕。 == 概要 == お栄の家は、福岡県堅粕村松園の旧九州鉄道吉塚駅付近の第三踏切の踏切番を父・七三郎と兄・計之助、姉・夜仁佐の3人で勤めていた(現在の福岡市博多区堅粕 清水保育園前)〔。 しかし、当時明治38年6月は、日露戦争の最中で、父は兵役に取られてしまい、母は3週間前に病死していたので、兄・姉の二人で踏切番を勤めていた〔福岡日日新聞、菊竹及び木村栄文によると兵役についていたのは18歳の兄、国鉄の記録と『続・事故の鉄道史』によると父が兵役についていたとされ記述に差異がある。兵役は20歳からのはずで18歳の兄が兵役についている可能性には疑問がある。従ってここでは国鉄の記述に従った。〕。 事故の当日6月17日は母の三七日(みなのか)にあたり、法要が営まれるなかで兄姉が家を離れられないために兄姉のかわりに11歳のお栄が踏切番を務めることになった。紅白の旗2本を持ち一人踏み切り番を務めるお栄の前で、汽車が近づくにも関わらず線路内に立ち入った人物がいた。お栄は警告を発し、なおも気が付かない人物を追いかけて守り、代わりに汽車に接触し亡くなってしまった〔〔。 当時、九州で最大の部数を発行していた福岡日日新聞の記者・菊竹六鼓は、事故の5日後の6月22日の福岡日日新聞 第一面トップで、山崎お栄を「理想の死」と名づけた論説で賞賛している〔『六鼓菊竹淳 - 論説・手記・評伝』p476-478〕〔福岡日日新聞 明治38年6月22日 第1面〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山崎栄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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