翻訳と辞書
Words near each other
・ 山崎正董
・ 山崎正貴
・ 山崎武三郎
・ 山崎武司
・ 山崎武昭
・ 山崎毅
・ 山崎毅宜
・ 山崎毛利氏
・ 山崎氏
・ 山崎治敏
山崎治正
・ 山崎治祇
・ 山崎治雄
・ 山崎治頼
・ 山崎泉
・ 山崎泰
・ 山崎泰孝
・ 山崎泰廣
・ 山崎泰明
・ 山崎洋


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

山崎治正 : ミニ英和和英辞書
山崎治正[やまざき はるまさ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

山崎治正 : ウィキペディア日本語版
山崎治正[やまざき はるまさ]
山崎 治正(やまざき はるまさ、文政4年10月1日1821年10月26日)- 明治9年(1876年3月6日)は、備中国成羽藩の初代藩主。大和交代寄合表御衆田原本領主平野長興の次男。母は山崎義徳の娘。正室は上杉斉定の娘(離婚)。継室は細川行芬の娘。子に治祇織田信親織田信民養子)、治敏京極寿吉京極高典養子)、徳子(平野長裕室)。幼名は寿丸。初名は義厚
山崎氏ははじめ5000石の交代寄合であり、天保6年(1835年)、外伯父山崎義柄の養子となり、その家督を継いだ。同年3月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。天保8年6月18日、初めてお国入りする許可を得る。慶応元年(1865年)2月、農兵隊などを結成し、領内の治安維持をはかった。
明治元年(1868年)閏4月、領内の開拓などで所領が1万2000石に増加したと新政府に申し立てた。同年6月20日、明治新政府はこれを認め、成羽藩の立藩を許可する。明治2年(1869年)正月晦日、隠居し、長男治祇に家督を譲った。以後、竹翁と称した。明治9年(1876年)3月6日に56歳で死去した。墓所は岡山県高梁市の桂巌寺。法号は芳春院殿光岳瑞馨大居士。

== がま池 ==
治正の成羽藩の屋敷は現在の東京都港区元麻布二丁目にあり、大きな池があった。文政4年(1821年)の大火では治正の屋敷のみが類焼を免れたが、これはこの池に住むという大ガマが水を吹きかけて類焼を防いだからであるという言い伝えが残っている〔がま池とかえる御守り・上の字様 | 十番稲荷神社 〕。これ以降江戸市中の人々は、山崎家に火除けのお守りを乞うようになった。明治維新以降は、近所の末広神社でお札の発給を引き継いだ。
旧山崎邸のガマ池は、明治以降東京の名所の一つに数えられる名所となったが、昭和8年(1933年)にほとんどが埋め立てられ、さらに埋め立てられ、現在はマンションの敷地内に一部残っている。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山崎治正」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.