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山崎立翔 : ミニ英和和英辞書
山崎立翔[やまさき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)

山崎立翔 ( リダイレクト:山崎隆造 ) : ウィキペディア日本語版
山崎隆造[やまさき りゅうぞう]

山崎 隆造(やまさき りゅうぞう、1958年4月15日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手外野手内野手)。愛称は「リュー」。2003年から2011年までの登録名は「山崎 立翔」(読み同じ)。
== 来歴・人物 ==
崇徳高校では、1976年、3年の時に一番打者、遊撃手として春の選抜に出場。決勝で小山高を降し優勝を果たす。夏の甲子園では3回戦で長崎海星に敗退。黒田真二小川達明や後の新日鉄君津早稲田大学野球部監督の應武篤良は同期でチームメイトだった。
超高校級の遊撃手と騒がれ、1976年ドラフト1位で広島東洋カープに入団。1978年後半から当時監督だった古葉竹識の勧めにより、高橋慶彦に次いでスイッチヒッターへ転向した。しかし高橋がいたため遊撃手には定着出来ず、入団5年目までは内外野(主に二塁手左翼手)をかけもちした。
1981年3月8日、熊本藤崎台球場でのオープン戦(対日本ハムファイターズ)で、村井英司の打球を追ってコンクリートフェンスに激突し、右ひざを骨折し全治2か月の重傷を負う〔沢柳政義『野球場大事典』大空社、1990年、p.293〕。この時の衝撃音はベンチ裏まで聞こえたほどで、膝蓋骨はたいてい二つに割れるものだが、山崎の場合は粉々になっていたという。手術は「粉々になった骨を掻き集めて、ワイヤーで皿状に括る」という前例のないケースで行われ、一転して選手生命の危機を迎えた。
1981年のシーズンは棒にふったが、翌年の1982年に86試合に出場し、復活。1983年には開幕戦から山本浩二左翼手にコンバート)に代わって中堅手を任され、レギュラー定着を果たした。打順は主に2番や1番を打ち、6月以降は中堅手の座を長嶋清幸に譲り、自身は主に右翼手を務めるようになる。同年から3年連続で打率3割を記録。ベストナイン3度、外野手としてゴールデングラブ賞を4度受賞、1984年には26試合連続安打を記録するなど、走攻守三拍子揃った「赤ヘル野球」の体現者として高橋とともに活躍した。打撃タイトルは無かったものの、右ひざ骨折という致命的な大怪我をしながら、その後203個の盗塁を重ね、1984年からは6シーズン連続全試合出場を果たしており、1983年10月16日から1990年4月28日まで803試合連続出場している。
1990年以降は外野に加えて三塁手としての出場が増え、1993年シーズン終了後に現役引退した。その後はコーチ、二軍監督を経て2001年から一軍守備走塁コーチ(一塁・三塁ベースコーチ)を務めた。2003年に「隆造」から「立翔」に改名。2006年から再び二軍監督に就任し、2011年まで務め同年限りで辞任した。
2012年からは中国放送(RCC)の野球解説者を務める傍ら、広島東洋カープジュニアチームの監督を務めており、解説者・監督としての活動では本名の「隆造」名義に戻している。また同年より、崇徳高校硬式野球部OB会副会長に就任している(会長は應武)。
ちなみに、ロックバンドくるり」の岸田繁は山崎の現役時代のプレーを見て以来ファンとなり、現在も広島の大ファンで、2006年6月4日広島市民球場始球式を務めている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山崎隆造」の詳細全文を読む




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