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山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年(天保2年) - 1912年(明治45年))は、幕末から明治時代の実業家。 == 略歴 == 天保2年(1831年)11月18日、武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。生家は川越で菓子商を営む山崎家で、初代の山崎嘉七が信州中野(現在の長野県中野市)から川越に出て、天明3年(1783年)に和菓子店・亀屋を創業、以来、武蔵国川越藩の御用達となった。 山崎家は代々「嘉七」を襲名(但し7代目からは襲名せず)、豊はその4代目で亀屋を江戸風の洗練された和菓子商店に変革、川越名物「亀の最中」など亀屋中興の祖と言われる。慶応3年(1867年)には川越藩の御用商人となり藩の財政にも関与、明治以降は川越の経済活動の中心的人物の一人。明治11年(1878年)に開行した第八十五国立銀行の設立発起人の一人となり、明治25年(1892年)には頭取に就任、第八十五国立銀行は明治31年(1898年)には民営化され第八十五銀行となる。さらに明治29年(1896年)には川越貯蓄銀行を創設、両行の頭取に就任した。また明治33年(1900年)には埼玉県で最初の川越商業会議所(現在の川越商工会議所)を発足させ、初代会頭ともなった。大正7年(1918年)の時点で資本金100万円という資本力を誇った第八十五銀行は豊の財力・経営手腕に多くを負っていた。産業功労者に表彰される。 教育面では志義学校の創設に尽力、「画宝会」の幹事として芸術家を後援した。特に川越藩士だった橋本雅邦とは交流があり雅邦を経済的に支援、豊は雅邦や菊池容斎、川合玉堂の作品を蒐集、それらは豊の生誕150周年を記念して、昭和57年(1982年)11月3日に開館した山崎美術館で見ることができる。 明治45年2月27日死去。82歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山崎豊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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