|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 本 : [ほん, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
山本 ゆうじ(やまもと ゆうじ、1960年(昭和35年)3月8日 - )は、日本の スポーツDJ、ラジオDJ、タレント、司会者、俳優、ミュージシャン、作詞家である。 == 略歴 == 東京都生まれ。 父の仕事の関係から幼い頃から小学校、八丁堀から横浜、中学は横浜から茨城と各地に移り住む。寂しさを紛らわすために青春ドラマ、刑事ドラマに夢中になった。高校卒業後一旦は調理師を目指すが休日に見た「ロッキー」に感動し役者を志し劇団「ひまわり」に入団。(同期には柳葉敏郎がいて、当時の柳葉のニックネームを”ジョニー”とつけたのは山本)母は若い頃俳優の家に出入りしていて大の洋画好きであり映画音楽ファンだった。その影響からか「第3の男」や「ロミオとジュリエット」などセンチメンタルな曲が好きだった。 劇団「ひまわり」で俳優時代、100以上のオーディションを受け「翔んだカップル」「ただいま放課後」など青春ドラマに出演。またNHK大河ドラマ「獅子の時代」、黒澤明「影武者」などの時代劇にも端役で出演。 しかしなかなか芽が出ず渋谷など街を歩いていると世はアメリカンPOPSが全盛でDJブーム。「渋谷、六本木あたりのBAR,CAFE、居酒屋にはDJが音楽を流し喋っていた。とにかくかっこ良かったし、喋る仕事をしたくなった」(山本談) 5年間の俳優生活を終え渋谷のBAR「ROXY」を皮切りに様々な店を回り、音楽、映画などの知識を付けていった。また、コピーライター養成講座や絵画などを習い感覚を磨いていく。 1989年ビーチバレー国際大会が八景島で行われることになり、バレーボール(高校時代)経験者の山本が抜擢され自身も含め日本のスポーツ会場に初めてDJが入る。「それまでのスポーツ会場は静かな雰囲気だった。僕が見たアメリカ映画では会場はとにかくにぎやかで楽しい。それを再現したかった」(山本談)山本は会場でレコードのターンテーブルを持ち込み、CDと合わせ音楽とトークのコラボを企画した。「公開ラジオの雰囲気からヒントを得たんだ」(山本談)こうしたパフォーマンスが評判になっていく。 1991年サッカーチームJR古河(現JEF千葉)の専属DJとなる。 1992年Jリーグ開幕時にはJEFホーム会場での会場FM実況を担当。以降、柏レイソル、鹿島アントラーズ、モンテディオ山形、横浜FC、ザスパ草津などのDJを担当。当時「サウンドトラック’93」(東京FM出版)などを発表し映画評論家としても活動していたが、スポーツDJの仕事が忙しくスポーツに専念することとなる。 ビーチバレーの日本一を決める「ビーチバレージャパン」は1990年から20年間DJを務めた。 その他、学生選手権ぴあCUP、プロツアーJBV大会など多くの大会を経験。”山本ゆうじは夏の男”のイメージを決定づけた。 2015年5年ぶりにビーチバレーサテライト大会で復帰。 また友人である西村晃一選手の”save the beach"イベントでは毎年エキジビションゲームを進行している。 1999年には念願のバレーボールワールドカップ公式DJとしてV6の坂本昌行と共に会場を盛り上げ、以降、2007年と2011年は海外戦の進行DJを担当し、2015年自身3大会目の海外戦担当に決定した。 仕事のモットーは、選手や対象となるゲストへのリスペクト、観客やリスナーへの気配り、DJパフォーマーとしての存在感、の3つからなる「トライアングル理論」。 愛犬のDAXチャーリーをこよなく愛す。 1993年映画音楽が講じて初の著書 が「サウンドトラック・ストーリー」(東京FM出版)。パンフレットやレコード、CDなど一万枚を所有し、映画音楽のDJとしても2008年「東京国際映画祭」などで活躍している。 2005年よりオリジナルを歌ったLIVE活動も始めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本ゆうじ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|