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山本 一義(やまもと かずよし、1938年7月22日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(外野手)・監督、野球評論家。 ==来歴・人物== 父親は中国新聞社の人事部長〔中国新聞 生きて<2> 田んぼのガキ大将 野球への夢 膨らむ一方 〕〔復興の道、市民と共に=希望届けた地元球団カープ-元主力打者山本一義さん・原爆忌 〕〔CONNOTE-ものづくり名手名言 第16回 〕。広島市天満町で生まれ〔「ピースナイター2014」開催 - 広島東洋カープ公式サイト 〕〔中国新聞2014年7月29日19面、31日33面〕、原爆投下時は広島市郊外の三入へ疎開していて自身は無事だったが、父は通勤途中に被爆した〔。小学校5年の時、皆実町に引っ越し〔中国新聞 生きて<3> 復興する街で 母の激励で毎朝素振り 〕。1950年1月15日広島カープ結団披露式(広島西練兵場・現在の広島県庁付近)〔スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球【1月15日】1950年(昭25) 〕に父に連れられ見に行く〔。広島市立翠町中学校から、広島商業に進み、超高校級スラッガーとして鳴らした〔〔。3年夏の県予選では13打席で10回敬遠され、やっと勝負してきた初球をホームランしたという逸話も残る〔中国新聞 生きて<4> 13打席10敬遠 強打で躍進の原動力に 〕〔甲子園で時代創った広島商…達川ら輩出 〕〔高校野球新世紀・第2部 白球列伝 山本 一義(広島商) (中国新聞 より)〕。1956年には同期の上土井勝利投手(広島)を擁し、春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では1回戦で県岐阜商の清沢忠彦投手(慶大-住友金属)に抑えられ惜敗。夏の選手権でも2回戦(初戦)で済々黌に敗れる。 進学した法政大学でも1年生からレギュラー。東京六大学リーグでは4年時の1960年春季リーグで、四番打者、主将として活躍。同期の山崎正之の好投もあり、法大に12年ぶり7度目のリーグ優勝をもたらした。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で同志社大を破り初優勝を飾る。法政大学野球部が優勝争いの常連となるのはこの年から。リーグ史上初めて4年間8シーズン全試合フル出場を記録している。ベストナイン選出2回。山崎以外の大学同期に鈴木孝雄がいた。山本浩二は東京六大学の中継を見て同姓同郷の山本一義に憧れて法政に進学したという〔第3回 鶴岡親分が練習見に来て大緊張 ― スポニチ Sponichi 〕。 プロの全球団から誘いを受けたが〔、広商の大先輩で、高校時代から目をかけてもらった鶴岡一人監督率いる南海ホークスに入るつもりだったが、それを父に話すと酷く落胆。また当時の通産大臣でカープ後援会の名誉会長だった池田勇人から説得され1961年、地元広島カープに入団した〔〔〔田辺一球・広島魂(赤の魂)|広島カープ書籍グッズ 〕。プロでも1年目からレギュラーを獲得し巧打の4番打者として活躍〔。タイトル獲得は無かったが、打率ベストテンには5回、3割2回マーク。低迷期のチームにあって地元出身の生え抜きのスター選手として大きな役割を果たし、チームの主将を務め、コーチ兼任となった1975年の初優勝を見届けて現役引退〔中国新聞(2013/9/10) 生きて<1> 人生は学びと挑戦 教えの数々生きる糧に | 元プロ野球選手 山本一義 〕〔二宮清純「75年日本シリーズ、西宮球場“鉄塔伝説”の真相」 ">二宮清純「75年日本シリーズ、西宮球場“鉄塔伝説”の真相」 、二宮清純「75年日本シリーズ、西宮球場“鉄塔伝説”の真相」2頁 〕。 引退後、1976年~1979年広島一軍打撃コーチ。監督の古葉竹識とともに高橋慶彦・山崎隆造をスイッチヒッターに育成、球界の先駆けとなった。大野豊のプロ野球入りは、出雲で開催された山本と池谷公二郎のカープ野球教室が切っ掛け〔大野 豊|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2 〕。1980年~1981年、監督の西本幸雄に誘われ近鉄バファローズ一軍打撃コーチを務め、1982年、ロッテオリオンズオーナーの重光武雄が旧知の鶴岡一人に次期監督を相談、大学の先輩である鶴岡の推薦により監督に就任〔【9月2日】1983年(昭58) 異例のシーズン中呼び出し 奇々怪々の山本一義監督の“留任” 〕。1982年、落合博満の三冠王獲得に尽力した。1983年は球団史上初の最下位となり解任されたが〔俺たちの川崎ロッテ・オリオンズ、ベースボール・マガジン社、2013年、P47〕、シーズン後半は、高沢秀昭やスイッチヒッターに転向させた西村徳文ら、若手を我慢して起用して育てた〔ロッテ球団40周年記念 〕〔SPORTS COMMUNICATIONS - 第373回 元練習の虫は「ボビー流」をどう変えるか 千葉ロッテ・西村徳文監督 〕〔日刊スポーツ2010年11月4日2面〕。1984年~1985年は推薦した鶴岡の計らいで南海ホークス一軍打撃コーチに就任し山本和範〔永谷脩『タフに生きる』世界文化社、1991年、p190-199〕、吉田博之らを育てた〔。生一本の性格で現役時代から村山実とウマが合い、村山が阪神監督に復帰した1988年、山本に入閣を打診したが、山本が病気の父親の付き添いで病院に寝泊まりして連絡が取れず、時間切れで実現しなかったという〔日刊スポーツ2007年10月9日7面〕。 その後は関西テレビ(プロ野球ニュース)、中国放送の野球解説者を経て、1994年から1998年まで広島のチーフ兼打撃コーチ(ヘッド格)を務めた。金本知憲〔、木村拓也の育成も有名だが、キャンプで打球が前に飛ばなかったルイス・ロペスをセ・リーグ史上ただ一人、来日1年目から2年連続3割100打点(打点王)を獲らせるなど多くの強打者を育成した。金本は「三村さんと山本一義さんは野球界の恩人」と著書に記している〔金本知憲著、人生賭けて: ~苦しみの後には必ず成長があった~ 小学館、2012年、P122〕。広岡達朗による、東北楽天ゴールデンイーグルスの再建案でも打撃コーチに推されていた。野村克也の就任でご破算になったが、高い打撃理論と熱血指導で知られた。 現在は、プロ野球マスターズリーグに所属しながら、母校法政大学の臨時コーチ、全日本少年硬式野球連盟大会会長などで後進の指導にあたる他、日刊スポーツ評論家を務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本一義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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