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山本佐久 : ミニ英和和英辞書
山本佐久[やまもと さく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [さ]
 【名詞】 1. help 

山本佐久 : ウィキペディア日本語版
山本佐久[やまもと さく]

山本 佐久(やまもと さく、文化6年(1809年) - 明治29年(1896年5月20日)は、幕末から明治時代にかけての会津藩出身の女性。
== 経歴 ==
会津藩砲術指南役、山本左兵衛の長女として誕生した。左兵衛には跡継ぎとなる男子がいなかったことから、文政9年(1826年)、婿養子に同じ会津藩士で、目付の家柄である永岡家の四男・繁之助(後の権八)を迎えた。権八との間には6人の子供が産まれるが、次男・長女・次女は早くして亡くなったため、健康に育ったのは、長男・覚馬、三女・八重、三男・三郎だけだった。
戊辰戦争が勃発すると、三郎は鳥羽・伏見の戦いで戦死し、覚馬は京都で消息不明となり、後に山本家にもこの事が伝えられた。会津戦争時は、八重や家族と共に籠城戦を戦い抜いた〔家族で籠城戦に参加したのは八重、覚馬の妻・山本うら、その子みねで、権八は会津戦争の一ノ堰の戦いで戦死した。〕。
会津藩降伏後は、消息が判明した覚馬を頼り、八重と孫のみね(覚馬の子)と共に京都へ移り住んだ〔うらは京都へ行くのを拒み、みねを託して会津に留まった〕。八重が嫁いだ新島襄同志社女学校を設立すると、5年間にわたり寮の舎監を務めて襄と八重を支えた。
明治9年(1876年)12月3日、京都第二公会を設立する際に、孫のみねと共に新島襄から洗礼を受けた〔『日本キリスト教歴史大事典』1446頁〕。
明治29年(1896年)、死去。享年87〔85、86とする説もある〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山本佐久」の詳細全文を読む




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