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山本 光一(やまもと こういつ(こういち)、天保14年(1843年)? - 明治38年(1905年)?)は、明治時代の江戸琳派の絵師。名は信敬、徳基。号は、花明園、晴々、靖々、皓々、露聲、真如葊、木石閑人など。 == 略伝 == 酒井抱一の弟子山本素堂の長男。雨華庵四世を継いだ酒井道一は実弟。江戸時代中期の儒学者山本北山は曽祖父に当たる。雨華庵三世酒井鶯一の門人で、新吉原江戸町に住んだ。 明治7年(1874年)に設立された起立工商会社では、鈴木其一の次男誠一や、其一門人の稲垣其達らと共に製作下絵を描き、明治14年(1881年)の時点では中心的存在だった。東京芸術大学大学美術館には749点もの図案が残っており、これは画工名がわかる図案の中では最も多い。図柄だけでなく、洋風の器物の形も一緒に考案し、金工や蒔絵など多様な技法による製品化の要求に答えるなど、幅広い仕事をしている。明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会で、漆器図案で花紋賞を受賞。翌年のパリ万国博覧会に行く話もあったが、同僚の渡辺省亭にくじで敗れ、パリ洋行は叶わなかったという(「西尾卓郎翁の談話」)。明治15年(1882年)第一回内国絵画共進会や翌年の第一回パリ日本美術縦覧会にも出品している。 しかし、明治24年(1891年)起立工商会社が閉鎖されると、どこからか誘いがあったらしく金沢へ居を移し、後半生は北陸を舞台に活躍した。一時は富山県立工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)にも在職している。金沢では拈華会を主催し、日本画や加賀友禅の若手作家を育成した。岡本光谿、伊藤光雲、下村光鳳など、「光」の字を継ぐ画家たちは光一の門人たちである。日本画家の石崎光瑤もこの頃の弟子で、晩年まで長文の手紙を出すなど子弟の交流があった。明治30年(1897年)に光瑤に雅号を授与する送り状では、自らを「尾形流専門」と称し、本阿弥光悦・俵屋宗達・尾形光琳以降の絵師の系譜を記した「尾形流系統略」という系図(南砺市立福光美術館蔵)を贈っている。創刊間もない北國新聞からも挿絵を依頼されたらしく、北国新聞社にはその原画が残っている。後に粟津や小松にも在住し、数々の屏風絵を残す。明治38年(1905年)頃石川から姿を消し消息が途絶えるが、一説には京都に行ったともいわれる。 人物画や草花図など幅広い画題をこなし、屏風絵の大作も多く残すなど、近年多くの作例が知られ始めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本光一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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