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山本 利三郎(やまもと りさぶろう、1899年4月25日〔『鉄道ジャーナル』通巻477号 p.154〕 - 1982年5月30日〔)は、日本の鉄道技術者。 東京急行電鉄(大東急)から分離した後の小田急電鉄に取締役運輸担当として就任し〔『鉄道ファン』通巻386号 p.68〕、同社3000形電車(SE車)の開発に尽力した〔『ゼロ戦から夢の超特急』p.126〕。また、その後の小田急電鉄の車両における思想に影響を残した。 == 経歴 == 大阪府大阪市南区(現在の天王寺区)上汐に生まれる〔。1924年3月に九州帝国大学電気工学科を卒業し、鉄道省に入省〔。 鉄道省では電気局に配属となり、1931年までに品川電車庫、田町機関庫、東京機関庫、蒲田電車庫、国府津機関庫などの現業機関を経験する〔『RRR』1997年11月号 p.28〕。田町機関庫では導入されたばかりのイギリス製電気機関車に故障が多く苦労したという〔『ゼロ戦から夢の超特急』p.55〕。この間、1924年12月から1年間は志願兵として広島電信第二連隊に入隊していた〔。1931年7月に東京鉄道局運転課へ転勤〔。東京鉄道局電車掛長時代の1935年には「関節式新電車ニ就イテ」と題した、東京駅と沼津駅の間に流線形で連接構造の軽量高速電車を走らせるという内容の業務研究資料を発表している〔『日本の電車物語 新性能電車編』 p.167-168〕。1935年10月には大阪鉄道局福知山運輸事務所長として赴任したが、この時にも「電気列車運転に関する調査」と題した論文を発表している〔。その後、東京鉄道局仙台運輸事務所長として転任したが、1937年5月から約1年半の間は陸軍省中支派遣軍指令部員として上海に駐屯した〔。任期が終わって鉄道省に復帰した後は、広島鉄道局広島運輸事務所長に着任〔。そのあと各地を転々とした後、1945年6月に新潟鉄道教習所長の職を最後に退官した〔。 同年11月に東京急行電鉄に入社し電車部長に着任〔。この時期に萬世書房より『電気運転の話』と題する書籍を出している〔。1948年6月1日の大東急分割に伴い、分離発足した小田急電鉄(小田急)に取締役運輸担当兼運輸課長〔当時の小田急にはまだ部制はなかった(『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.9)。〕として就任し〔、1950年には取締役運輸部長に就任〔。 小田急では「新宿と小田原を60分で結ぶ」ことを目標に、スピードアップに取り組んだ〔。1951年2月5日から13日にかけては同社小田原線小田急相模原駅から相武台前駅までの区間で行なわれた直角カルダン駆動方式の試験に携わった〔。この時期の小田急では、これ以外にも新しい技術の導入や試験が積極的に行なわれていたが、これは山本の存在も大きかったとも考えられている〔『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.9〕。 1954年以降は3000形SE車の開発が開始され、同年から考査局長にも併任していた〔山本は先頭に立ってこの計画を推進した〔。社内からの反発によってSE車の開発が一時棚上げになったときの落胆振りは、端から見るのも辛いほどであったという〔『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.85〕。また、SE車が狭軌世界最高速度記録を達成した時に国鉄副技師長だった石原米彦によれば、沼津駅到着後に車両を点検する山本の様子は「子供が入学試験に通った時のような顔をしていた」という〔『ゼロ戦から夢の超特急』 p.198〕。星晃は「SE車は山本あってこその傑作」としている〔『ゼロ戦から夢の超特急』p.17〕。 1959年には技師長も兼務し〔、1960年代に数次にわたって行なわれた車体傾斜制御や操舵台車の試験に携わった〔『RRR』1997年11月号 p.29〕。 1965年3月に取締役を退任、顧問となる〔。その後もスピードアップに関する論文を日本交通協会の機関誌「汎交通」などに投稿しており、「汎交通」1982年7月号に掲載された「走行抵抗を減らす列車の関節方式を勧める」という小論文が絶筆となった〔。同論文の中では、同年末に国鉄線上で7000形LSE車を使用した走行試験が行なわれることにふれて「結果を期待したい」と結んでいた〔が、その結果を見ることなく同年5月30日に死去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本利三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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