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山本梅逸 : ミニ英和和英辞書
山本梅逸[やまもと ばいいつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [うめ]
 【名詞】 1. (1) plum 2. Japanese apricot 3. prunus mume 4. (2) lowest (of a three-tier ranking system) 

山本梅逸 : ウィキペディア日本語版
山本梅逸[やまもと ばいいつ]
山本梅逸(やまもと ばいいつ、天明3年10月20日1783年11月14日) - 安政3年1月2日1856年2月7日))は江戸時代後期の文人画家名古屋の生まれで、尾張南画の代表的画家。
本名を亮、は親亮、を明卿。卯年生まれに因み、通称を卯年吉(うねきち)。 画号は春園・竹厳・梅佚、のちに梅逸とした。別号に梅華道人・玉禅・天道外史・葵園・友竹艸居・白梅居など。
== 略伝 ==
名古屋天道町(現在の中区大須)で、彫刻師山本有右衛門の子として生まれる。この父は尾張藩の組同心だったとも、藩士の用人だったとも伝えられるが、記録は残っていない。父は梅逸が13歳のときに没し生活は貧窮したが、母は子どもの教育に心掛け、梅逸に和歌の手解きをしたという。幼い時から画を好み、地元の絵師山本蘭亭〔本名は直秀。初め狩野派の門にあったが、後に風俗画の駒新(駒屋新兵衛)に師事、浮世絵を描いた。90余歳まで生きたというが、生没年は定かでない。〕に学ぶ〔「尾張南画中興の祖」と呼ばれる山田宮常(1747年 - 1793年)を師とする説もある。しかし、宮常の没年は梅逸11歳の若年である事から可能性は薄く、仮に師事することはあってもごく短期間だったと思われる。おそらく、宮常が竹洞の初めての師であり、当時の尾張南画における中心人物であったことから負荷された説であろう。〕。蘭亭は梅逸の画才を見抜き張月樵に入門させた。その後、尾張画壇のパトロンで古書画の収蔵家として知られた豪商神谷天遊(永楽屋伝右衛門)の庇護を受け、天遊に理論面での指導を受けつつ、同家に所蔵される中国古画の臨模が許された。天遊の元で、生涯の盟友となる7歳年長の中林竹洞とも出会う。天遊に連れられ万松寺に出向いたとき王冕時代)の「墨梅図」〔王冕「墨梅図」は李衎(リカン)「竹石図」とともに織田信秀から万松寺に寄進され伝世したもので、明治13年には皇室に献上され現在三の丸尚蔵館に収蔵されている。「皇室の名宝-美と伝統の精華」NHK 1999年〕を見て深く感銘したことから梅逸の号を授けられたといわれる。同じくこのとき兄弟子の竹洞は李衎(リカン)「竹石図」に感銘したことからその号を与えられたという。
享和2年(1802年)、恩人の天遊が病没すると師友の竹洞と共に京都に赴く。寺院などに伝わるの古書画を盛んに臨模し、明末の文人楊文聰山水画を購入するなど書画の収集にも傾注した。新天地を求め上洛した二人だが、京都画壇の壁は厚く画業は停滞し、竹洞の父の危篤の報を聞いて、一旦は名古屋に帰る。天保3年(1832年)に再び京都に出て、以降画家として認められ京都の文人社会に知られるようになる〔天保9年(1839年)版「平安人物誌」に画家として初登場し10年後の嘉永5年版では中林竹洞・小田海仙についで3番目の順位に挙げられている。〕。書画会の出品も多く次第に京阪で人気の画家となり、年収が200両にもなったという。頼山陽などと交遊し煎茶にも親しみ、その茶は梅逸流と称された。弘化元年(1844年)には、煎茶会席を彩る席飾りの図案集『清娯帖』も描いている〔『清娯帖 梅逸の茶会図案集』 文人画研究会、2008年9月9日。〕。また、名古屋の煎茶普及にも一役買っている。
日本各地に遊歴し、江戸では大窪詩仏と交流。尾張藩主の邸宅で谷文晁とともに画作を行っている。天保元年(1830年)、名古屋では藩主の命によって朝鮮から来た豹を写生している。その他にも山陽・四国・北陸にも脚を伸ばしている。京都に画家として23年留まったが安政元年(1854年)に尾張藩御用絵師格として取り立てられ、御用人支配の地位を得た。帯刀、拝謁も許され御園町(現在の名古屋市中区)に移り住んだ。享年75。法名は玉禅院天蘂梅逸居士。京都慈眼寺と伊勢山町洞仙寺(現在は千種区平和公園洞仙寺墓地)に葬られる。
梅逸は山水画花鳥画を得意とした。その画風は円山四条派の写実性・装飾性に影響を受け、明清の古書画の研究から模倣に陥ることなく独自の繊細で優麗な画風を築き上げ高い評価を得た。反面、描き込み過ぎで、描き殴ったような荒々しい筆致が目立つと評されることもある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山本梅逸」の詳細全文を読む




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