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山本 老迀斎(やまもと ろううさい)は、江戸時代後期の越後長岡藩の家老。老迀斎は晩年の号。諱は義方、後に藩主牧野忠精より一字拝領を受けて精義と改名。なお、『長岡市史』掲載の天明2年(1782年)の山本老迀斎の書では諱は義行となっている。石高は1300石。幼名は左傳次。通称は勘右衛門。字は子直。号は青城、老迀斎。 == 経歴・治績 == 享保3年(1718年)出生。父の正豊(帯刀)は長岡藩先法家の疋田正方(水右衛門)の庶子で家老山本氏に養子として入った。なお、山本家についての詳細は山本(帯刀)家を参照。 牧野忠寿、忠周、忠敬、忠利、忠寛、忠精の6代の藩主に仕えたとされる。なお家老就任は忠周治世中の元文4年6月(1739年)からである。この頃長岡藩では藩主の幼少での家督相続や若くしての隠居や死去が続いたが、高野永貞(栄軒)、高野常道(余慶)父子とともに内政を充実させて、文武振興を行い長岡藩の名執政と呼ばれた。これにより忠精の江戸幕府幕政参画の基礎が作られたとされる。 延享3年12月(1746年)に藩主忠敬の命を受けて高野栄軒や今泉親徳(岡右衛門)に藩主牧野氏の家譜及び家臣団諸記録の修補を命じる。また宝暦5年(1755年)に邸内に「書堂」と呼ぶ学問所を設け、後の藩校崇徳館設立の基礎を創ったとされる。 寛政2年(1790年)に、前年死去した忠精生母の俊光院の墓誌及び御善言、善行録を編纂する。寛政4年1月(1792年)に死去。享年75。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本老迂斎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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