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山本芳翠 : ミニ英和和英辞書
山本芳翠[やまもと ほうすい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

山本芳翠 : ウィキペディア日本語版
山本芳翠[やまもと ほうすい]

山本 芳翠(やまもと ほうすい、嘉永3年7月5日(1850年8月12日) - 明治39年(1906年11月15日山本芳翠 、朝日日本歴史人物事典、朝日新聞出版、コトバンク、2009年11月11日閲覧。〕)は、明治時代の日本の洋画家である。
== 人物・来歴 ==
嘉永3年(1850年)、美濃恵那郡明智村宇野志(現在の岐阜県恵那市)で農業養蚕を営む山本権八の長男として生まれる〔。本名は為蔵、為之助、為治(次)郎。
既に10歳頃から絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写したと、後年芳翠は回想している。慶応元年(1865年)15歳の時ふと手にとった『北斎漫画』に啓発されて画家を志す。始めは京都において、小田海僊の門人久保田雪江南画を学ぶ。そのうち、本当に南宗画を勉強するため中国に行こうと、明治4年(1872年)頃に横浜に出てくる〔芳翠本人は「洋画研究経歴談」に於いて、明治元年に横浜に出て、翌年芳柳に入門と語っている。しかし隅元謙次郎「山本芳翠について」(『美術研究』239号、1966年3月)では、芳翠の入門証の日付は「明治5年3月3日」と記載されていることから、入門を5年とし、前年に横浜に出たと推測している。〕。渡航の世話をしてくれる人はなく困窮していると、初世五姓田芳柳の家の前に飾られていた横浜絵に生きているようだと感心してその門に入り、南画から転向し洋画を学んだ。当時、芳柳の次男・五姓田義松チャールズ・ワーグマンに絵を習っており、芳翠もこれに同行して西洋画に触れる。明治6年(1873年)末には横浜から東京に移り、明治8年(1875年)頃には津田仙の学農舎に寄留し、肖像画で一家を成すまでになった。
1876年(明治9年)、工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。翌年退学し、同年の第1回内国勧業博覧会に『勾当内侍月詠図』を出品、花紋賞を受賞し宮内庁買い上げの栄誉を受ける。1878年(明治11年)、かねてより知遇を得ていた津田仙と岸田吟香の斡旋で、パリ万国博覧会の事務局雇としてフランスに留学する。当地のエコール・デ・ボザールジェロームに絵画技法を学ぶ。芳翠は多芸で料理も上手く、当時の在仏日本人が日本食を食べたくなると、みな芳翠の下宿に行ってご馳走になったという。黒田清輝もそうした一人だったが、芳翠は黒田に画家になるよう強く勧め、法律家志望の黒田を洋画家へ転向させる。
1887年(明治20年)に帰国。その際当時日本海軍がフランスに注文し、日本に回航する予定だった巡洋艦畝傍に渡欧中に制作した作品が積載された。しかし同艦は南シナ海で原因不明の消失を遂げ、300点とも400点とも言われる作品のすべてが失われてしまった。本人は無事帰国を果たし、版画家合田清とともに画塾「生巧館」を主宰。教え子に湯浅一郎藤島武二白滝幾之助北蓮蔵広瀬勝平などがいる。1889年(明治22年)、松岡寿浅井忠小山正太郎原田直次郎らと明治美術会の設立にこぎつけた。芳翠はほぼ毎回、この展覧会に出品している。
しかし、本人にとっては黒田清輝までの繋ぎのつもりだったらしく、「今に黒田が帰ってくる。そうしたら日本の洋画も本物になるでだろう。黒田ならきっとうまく画壇を導いて率いていくよ。この生巧館なんかも黒田にあけ渡して、その塾にしてしまって、俺は万事黒田任せでやって貰うつもりだ。お天道さまが出たら、行燈は要らなくなるよ」〔高階秀爾 「山本芳翠」(『日本近代美術史論』 講談社講談社学芸文庫〉、1990年9月、410-411頁、ISBN 978-4-0615-8941-4)。〕と語っていた。明治27年(1894年)に黒田がフランスから帰国すると本当に画塾を黒田に譲り、黒田は画塾を「天真道場」と改めた。生巧館から開放された芳翠は、京都に仏事(仏教博物館を建て、そこに油彩画による釈迦の生涯を展観して、その入場料で洋画家を志す若者を留学させようと志す。しかし、借金の保証人には死なれ詐欺に遇うなど全くの徒労に終わり、今度は大阪豊臣秀吉像を建て自らの名を残そうとするが、これも実らなかった。東京に戻った芳翠は、日清戦争に従軍、翌28年(1895年)2月に帰国している。明治29年(1896年)明治美術会を脱退し、黒田が結成した白馬会にも参加している。晩年の明治36年(1903年)には、演劇歌劇における洋風舞台装置の制作を行なった。この年、日本人による最初のオペラ公演となったグルック作曲「オルフェウス」(オルフェオとエウリディーチェ)の上演(ケーベル博士等の指導による)では背景画の一部を担当した。
1906年(明治39年)11月15日、自宅で脳溢血により死去した〔。満56歳没。法名は松光院芳仙翠翁居士。泉岳寺に葬られた。サイレント映画時代の剣戟映画トーキー現代劇で活動した俳優の山本礼三郎は次男である〔山本礼三郎 、日本人名大辞典、講談社コトバンク、2009年11月11日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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