|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 本 : [ほん, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation ・ 雄 : [おす] 【名詞】 1. male (animal)
山本 親雄(やまもと ちかお、1896年(明治29年)10月13日 - 1980年(昭和55年)11月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 == 経歴 == 1896年10月13日愛媛県松山市に生まれる。愛媛県立松山中学校を経て、1915年9月4日海軍兵学校第46期に131名中首席で入校、1918年11月21日124中次席の成績で卒業、少尉候補生。装甲巡洋艦「吾妻」乗組、練習艦隊近海航海へ出発し、1919年(大正8年)2月7日に帰着する。3月1日から練習艦隊遠洋航海( 上海~基隆~馬公~香港~マニラ~シンガポール~フリーマントル~セブ~パラオ~トラック~サイパン~二見方面巡航)に出発し、7月26日帰着する。8月1日海軍少尉、巡洋戦艦「鞍馬」乗組。 1919年9月25日海軍少尉候補生指導官附として装甲巡洋艦「吾妻」乗組。11月24日から練習艦隊遠洋航海出発( 佐世保~基隆~馬公~香港~シンガポール~コロンボ~アデン~ポートサイド~ナポリ~マルセイユ~ツーロン~ビゼルタ~マルタ~ポートサイド~コロンボ~バタヴィア~マニラ~志布志方面巡航 )、1920年(大正9年)5月20日帰着。6月1日戦艦「扶桑」乗組。12月1日海軍水雷学校普通科学生。1921年(大正10年)5月20日海軍砲術学校普通科学生。12月1日海軍中尉、巡洋戦艦「金剛」乗組。 1922年(大正11年)3月1日臨時航空術講習部員 兼横須賀海軍航空隊航空術第7期学生。11月1日霞ヶ浦海軍航空隊航空術学生。11月30日海軍航空術課程修了。12月1日霞ヶ浦海軍航空隊附。12月15日霞ヶ浦海軍航空隊教官。1923年(大正12年)12月1日霞ヶ浦海軍航空隊分隊長心得兼教官。 1924年(大正13年)12月1日海軍大尉、在アメリカ日本大使館附海軍駐在武官補佐官航空関係担当。1926年(大正15年)12月1日帰朝。1927年(昭和2年)5月10日海軍軍令部出仕。7月12日霞ヶ浦海軍航空隊附兼教官。11月15日霞ヶ浦海軍航空隊分隊長兼教官。12月20日兼海軍航空本部教育部員。1928年(昭和3年)8月10日免 海軍航空本部教育部員。10月18日航空母艦「赤城」分隊長 兼横須賀海軍航空隊附。1929年(昭和4年)3月25日免 横須賀海軍航空隊附。11月15日霞ヶ浦海軍航空隊飛行長。11月20日兼 教官。11月30日海軍少佐。 1930年(昭和5年)12月1日海軍大学校甲種第30期学生。1932年(昭和7年)11月26日海軍大学校甲種卒業。卒業時成績順位21名中首席。12月1日横須賀鎮守府附。1933年(昭和8年)1月25日連合艦隊司令部附。3月25日海軍軍令部出仕兼海軍省人事局第1課。5月10日海軍省人事局第1課。1934年(昭和9年)11月15日海軍中佐。1935年(昭和10年)11月15日第1航空戦隊参謀。1936年(昭和11年)11月16日軍令部第1部第1課。1937年(昭和12年)11月20日大本営航空参謀兼任。1939年(昭和14年)11月15日 海軍大佐、第15海軍航空隊司令 兼支那方面艦隊司令部附。1940年(昭和15年)1月10日第15海軍航空隊司令 兼第2航空廠長。11月15日水上機母艦「千歳」艦長。 1941年(昭和16年)8月20日海軍航空本部総務部第1課出仕。9月15日海軍航空本部総務部第1課長。1942年(昭和17年)11月1日兼 総務部第2課長。1943年(昭和18年)1月20日軍令部第1部第1課出仕。 1943年1月20日軍令部第1部作戦課長。4月12日兼第1部第2課長。 戦局が悪化すると陸海軍で特攻の動きが現れ始める。山本によれば、部内でも特攻の声は出てきたが、作戦課へは提出されていない、戦力が少ないから軽挙は避けるべしとの立場だったという。しかし、不本意ながら認めざるをえなくなるのなら最大の効果を期せるものをと、桜花、回天などの特攻兵器の研究に取り掛かったという。望ましくないと思いながらも実施部隊の熱意と戦局から押された形だったという〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期付録〕。 1944年(昭和19年)10月15日海軍少将。 1945年(昭和20年)1月6日第11航空戦隊司令官。指揮下に721空があり、11航戦司令部は特攻兵器桜花の戦法について研究と訓練を行う。爆撃隊は戦闘機の直接掩護の密集隊形を希望したが、司令部は自由を得るために間接掩護を主張した。山本は断を下す前に転出することになった〔山本親雄『大本営海軍部』朝日ソノラマ233-234頁〕。 2月10日第5航空艦隊司令部附。2月15日連合艦隊司令部附。3月1日第10航空艦隊参謀長。5月25日第72航空戦隊司令官。10月10日予備役編入。 戦後は中華民国総統蒋介石に招聘され中華民国軍事顧問団(白団)の副団長を務めた。 1980年(昭和55年)11月4日死去。享年84。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本親雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|