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山田 俊介(やまだ しゅんすけ、1899年1月31日 - 1969年7月1日)は、日本の政治家、内務官僚、従四位勲二等瑞宝章。 青森県知事(第42代)、満州国警務総局長兼保安局長官、福岡県知事(第35代)、逗子町長(1期)、逗子市長(4期)を歴任した。 == 概要 == 兵庫県明石市生まれ。父は逗子開成中学校の創設、経営に尽力した漢学者の山田武臣。代々三日月藩主に仕えた漢学者の家系であった。逗子開成中学校、東京陸軍幼年学校を経て、東京中学校、第七高等学校造士館、東京帝国大学経済学部を卒業。特に東京陸軍幼年学校時代に生徒監であった阿南惟幾に目をかけられ、後に同期に先んじて知事に抜擢されたのは阿南の推薦があったからだという〔山田俊介追悼録編集委員会『山田俊介追悼録』5頁〕。 高等文官試験に合格し内務省に入省し〔高文試験に合格するも官庁に登用されなかったため、内務省の次官に直談判した。 - 『山田俊介追悼録』6頁、242頁〕、幹部候補生として東京市役所に配属〔『山田俊介追悼録』36頁〕。日本各地の農林課長、警察部長等を経て、1942年に青森県知事、1943年満州国警務総局長 兼 保安局長官、1945年6月に福岡県知事に就任し10月、福岡県知事を辞任。翌年、公職追放処分。 公職追放解除後、逗子市へ移住し国会議員、神奈川県知事を目指したが資金、地盤の面で断念した〔『山田俊介追悼録』9頁〕。恩師〔であり初代逗子町長であった荒井友三郎町長が、在任中に箱根早雲山の道了山別院で土砂崩れに遭い死去したため、仲間の説得もあり逗子町長選に出馬し当選、逗子の市制施行にともない初代市長に就任。4期16年間にわたって逗子の発展に努めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田俊介」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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