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山田 去暦(やまだ きょれき/これき、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。 == 生涯 == 能筆家であったらしく、徳川家康が幼少の頃、家康の手習いの師匠を務めた。やがて石田三成の家臣となり、近江国で知行300石を領して彦根に住した。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こると、石田方の武将として出陣、石田方の本隊が関ヶ原へ移動後は、美濃国大垣城の守備をし田中吉政と戦ったと『おあむ物語』に書かれてるが、田中吉政は大垣城を攻めていないことから実際は佐和山城にいたのではないかという説もある〔本郷和人『戦国武将の明暗』(新潮社、2015)162-169〕。しかし、関ヶ原の本戦で石田方の敗北が濃厚となると徳川方に攻囲され籠城戦となる。城内には、去暦の妻、息子2人〔この息子のうちの一人は籠城戦の最中に流弾を浴びて討死する。〕、娘らがいた。落城真近となった籠城中の去暦の家族の元に、徳川方の武将である田中吉政の配下の者より「愈々明日には落城すると思うが山田去暦殿は、かつて家康公の手習い師匠であったので逃げるなら見逃そう」という矢文が届く。その誘いに乗って夜中に城壁から梯子を下ろし、去暦と家族たちは盥を舟にして濠を渡り城を脱出した。城を出て逃げる途中、妻が産気づいて女児を出産した。 その後、山内一豊の家臣となっていた近江出身の親族雨森氏康(九太夫)を頼って、1601年(慶長6年)に土佐国へ来住。去暦の嫡子・山田助丞は馬廻役(上士)として一豊に仕えた。この一部始終は『おあむ物語』として語られて著名である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田去暦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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