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山田城(やまだじょう)は、栃木県矢板市大字山田小字城山にある日本の城(山城)。根小屋(根古屋)城とも呼ばれる。 == 歴史 == === 築城 === 平安末期に山田八郎兼利によって築かれたとされる〔『塩谷朝業』〕。一方、文明・長享ごろに、塩谷孝綱の城代・山田泰業による築城と推測とする見解〔栃木県教育委員会事務局文化課編 『栃木県の中世城館跡』栃木県教育委員会、1982年。〕もある。ただし山田八郎の一族は文明・長享より前の応永年間に活動記録が見える。 山田八郎兼利説築城説によると、兼利が築城した山田城は、その子孫の山田八郎家が代々城主となったという。応永10年(1403年)8月には、山田八郎家が、中禅寺に法華経を寄贈するなど、山田八郎家は、塩谷氏の重臣として山田城を中心に繁栄した。その山田氏の主君である塩谷氏が、文明10年(1478年)正月18日に宇都宮氏より孝綱を養子に迎えると、その付家老としてやってきた山田筑後守泰業が城主となった。 この泰業の山田氏は、平貞能を祖とし〔『矢板市史』(矢板市史編集委員会編、1981年)、『歌人 塩谷朝業』(矢板市教育委員会、1998年)〕、山田八郎兼利を祖とする山田氏とは異なる。一方、「那須記」に泰業の孫・辰業は塩谷朝業の子・山田藤右衛門尉業清の末とある。ただし塩谷氏の系図に山田業清は見えない。 また、城主でなくなった山田八郎系の山田氏は断絶したわけではなく、薄葉ヶ原の戦いでは塩谷氏の武将として辰業に続いて山田八郎安林の名があり存続していたと見られる。山田八郎の山田氏は家老か何かの待遇で山田筑後守の山田氏を補佐して残ったものと考えられている。 築城当初の山田城は、三方を山に囲まれて奥まった山間に築かれた馬蹄形の館城であったと考えられ、山城の部分は、戦国期に入ってから築かれていったものと考えられている。 === 応永21年築城説について === 『矢板市史』の年表には、応永21年(1414年)に山田城築城とあるが、この根拠はいかなるものか不明である。また、他の矢板市刊行物の年表には全く出てこず、同じ矢板市史の山田城の記述とすら全く異なっている。このため、矢板市史の年表では、那須氏の歴史と併記して表記されているため、この山田城築城は、那須領片田の山田城の築城と誤解したものではないかとも考えられている。 その一方で、この年に近隣の沢村城で、那須内紛の戦が行われているため、この頃に、これに備えて那須との境界にある山田城が整備され、詰め城である山城部が築かれたのではないかとする説があり、これを支持した矢板市史の編纂者が、年表に載せたとする話もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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