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山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年(1866年)8月23日〔『明治の快男児トルコへ跳ぶ―山田寅次郎伝』p.213〕 - 昭和32年(1957年)2月13日)は、実業家、茶人。茶道宗徧流の第8世家元であるが、家元継承以前の山田 寅次郎(やまだとらじろう)の名で実業界でも活躍した。明治25年(1892年)にエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けにトルコに渡って以来、日本とトルコの交流に深く関わった人物としても知られる。 == 生い立ち == 宗有(寅次郎)は、幕末の慶応2年(1866年)に沼田藩用人・中村雄左衛門(莞爾)の次男として沼田藩の江戸上屋敷で生まれた〔『明治の快男児トルコへ跳ぶ―山田寅次郎伝』pp.70-72〕。中村家は曽祖父の代から家老職を務めていた。8歳まで沼田で生活し、維新後に上京した〔『明治の快男児トルコへ跳ぶ―山田寅次郎伝』p.70〕。明治14年(1881年)に宗徧流家元山田家に養子入りした。宗徧流は、寅次郎が生まれるより以前に6世家元の山田宗学が死去し、その妻が7世を継いで山田宗寿と称していたが、宗学夫妻の間には後を継ぐ子がいなかったため、後継ぎとして寅次郎が迎え入れられたのである。 しかし彼は茶道の家元を若くして継ぐ意志に乏しかったらしく、明治16年(1883年)に家元宗寿が亡くなったあとも家元を襲名せず、進んで言論界に入って陸羯南、福地源一郎らと交わった。茶道は高弟の中村宗知に任せていた〔『痛快ぐんまの人物伝』p.55〕。 東京で書生として暮らしながら政治活動・出版事業に手を広げ、幸田露伴の処女作を出版社の金港堂に売り込んだこともあった〔(のちに露伴は、友人だった寅次郎をモデルにして、軍艦沈没事件を抜け目なく利用して名を売り、金を集め、日本との貿易事業を画策して海外へ渡った男の話を短編「書生商人」(明治25~26年)としてまとめている〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田宗有」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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