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山田敬蔵 : ミニ英和和英辞書
山田敬蔵[やまだ けいぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [そう, くら, ぞう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator

山田敬蔵 : ウィキペディア日本語版
山田敬蔵[やまだ けいぞう]

山田 敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日 - )は、日本のマラソン選手。ヘルシンキオリンピック男子マラソン日本代表。現役時代の所属は同和鉱業花輪鉱業所。
== 略歴 ==
秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)出身。15歳の時に満蒙開拓青少年義勇軍に志願して中国大陸満州国へ渡った経歴を持つ〔「小さな日本人‐マラソン・山田敬蔵」『努力の花は咲く』林好一著 文芸社 77頁~79頁〕。満州時代に2,000mや10,000mを走って自信をつけたことを語っている〔。
第二次世界大戦終了後に満州から引き揚げ、秋田へ帰郷してから本格的に陸上競技に取り組むようになる〔。1949年第4回国民体育大会東京都)に秋田県代表として一般男子マラソンに出場し、この時に初めて42.195㎞のフルマラソンを走った〔。
1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場し、25位。
1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している)〔ボストン・マラソンで山田敬蔵優勝 昭和毎日〕。その活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳である。
ボストンマラソンには1953年、1957年、1975年、1976年、1995年からは毎年出場しており、1998年から2001年は70歳以上の部を4連覇している。2003年にはボストンマラソン優勝50年を記念して招待選手として出場している。また、優勝年の1953年にちなみ、ゼッケン番号1953は永久欠番となっており、出場時には山田のみがこの番号を付けることが許されている。2007年大会も4時間24分07秒のタイムで完走している。
1961年秋田国体炬火リレーの最終走者である。2007年秋田わか杉国体でも炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。現在でも各地のマラソン大会に招待選手として参加しており、その健脚を披露している。
2009年7月、81歳でフルマラソンから引退を表明した。
故郷である秋田県大館市の名誉市民であり、大館市では、山田敬蔵の栄誉を讃えて毎年4月29日に山田記念ロードレース大会を実施している〔 秋田県大館市ホームページ〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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