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山田 敬蔵(やまだ けいぞう、1927年11月30日 - )は、日本のマラソン選手。ヘルシンキオリンピック男子マラソン日本代表。現役時代の所属は同和鉱業花輪鉱業所。 == 略歴 == 秋田県北秋田郡大館町(現在の大館市)出身。15歳の時に満蒙開拓青少年義勇軍に志願して中国大陸・満州国へ渡った経歴を持つ〔「小さな日本人‐マラソン・山田敬蔵」『努力の花は咲く』林好一著 文芸社 77頁~79頁〕。満州時代に2,000mや10,000mを走って自信をつけたことを語っている〔。 第二次世界大戦終了後に満州から引き揚げ、秋田へ帰郷してから本格的に陸上競技に取り組むようになる〔。1949年の第4回国民体育大会(東京都)に秋田県代表として一般男子マラソンに出場し、この時に初めて42.195㎞のフルマラソンを走った〔。 1952年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場し、25位。 1953年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している)〔ボストン・マラソンで山田敬蔵優勝 昭和毎日〕。その活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳である。 ボストンマラソンには1953年、1957年、1975年、1976年、1995年からは毎年出場しており、1998年から2001年は70歳以上の部を4連覇している。2003年にはボストンマラソン優勝50年を記念して招待選手として出場している。また、優勝年の1953年にちなみ、ゼッケン番号1953は永久欠番となっており、出場時には山田のみがこの番号を付けることが許されている。2007年大会も4時間24分07秒のタイムで完走している。 1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者である。2007年の秋田わか杉国体でも炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。現在でも各地のマラソン大会に招待選手として参加しており、その健脚を披露している。 2009年7月、81歳でフルマラソンから引退を表明した。 故郷である秋田県大館市の名誉市民であり、大館市では、山田敬蔵の栄誉を讃えて毎年4月29日に山田記念ロードレース大会を実施している〔 秋田県大館市ホームページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山田敬蔵」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Keizo Yamada 」があります。 スポンサード リンク
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