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山縣農場(やまがたのうじょう) とは、山縣有朋が明治時代に、箒川を挟んで那須野が原に隣接する高原山山麓の栃木県矢板市に開いた開拓農場(周辺地図 )。那須野が原及びその周辺に10以上も開かれた華族農場のひとつである〔藤森照信は那須野が原の大農場を「プランテーション別荘」と呼んでいる(『建物探偵雨天決行』92-107ページ)。〕。 なお、ジェイアールバス関東西那須野支店の廃止された山県農場線(矢板北線)の停留所名は「山県農場」であった。 == 概要 == 山縣有朋は、1869-1870年(明治2-3年)に欧米事情視察のため渡欧し、ドイツで貴族が田園に農場をかまえ、農業・林業経営に当たるという貴族農場を見て感銘を受ける。 政府が那須野が原の広大な第三種官有地を払い下げることになったとき、当時、ここを開拓すべく大農場を開いたのは、栃木県令三島通庸をはじめ、青木周蔵、山田顕義、大山巌、西郷従道、松方正義、佐野常民、品川弥二郎、戸田氏共、毛利元敏、鍋島直大など錚々たる面々であった。有朋も那須ヶ原への入植を希望したが、平地の殆どはすでに他の高官や旧藩主らによりおさえられていた〔『元勲・財閥の邸宅』38-39頁〕。 有朋は、渋沢栄一が払い下げを希望しながら地元の反対〔伊佐野は明治維新までは地元の入会地であって、明治になってから官有地に繰り入れられたものの、地元民にとっては依然として落ち葉・草・薪を得る場所でありつづけていた。山縣はこの権利を保障し、払い下げについて地元の了解を取り付けた。〕で断念した那須野が原西部に隣接する伊佐野(現矢板市伊佐野)について、許可を譲り受け、地元の同意を取り付けて払い下げにこぎつけ、明治19年、伊佐野農場(のちの山縣農場)を開くに至る。山縣が払い下げで得た土地はおよそ「自然林150町歩、草山600町歩」で、その多くは山林であった。 山縣は、開墾にあたる人員の募集の際に、土地をもたない農家の次男三男という条件をつけた。農業を富国の基本と考える有朋は、一定の条件を満たした小作人に土地を与えて自作農を育てることを目指した。住まいを用意し、入植者の師弟のための学校を開くなど、こまやかな配慮も怠らなかった。その甲斐もあって開墾もすすみ、1910年(明治43年)には有朋は以下のような歌を詠んでいる。 * ''篠原も畑となる世の伊佐野山 みどりに籠もる杉にひの木に'' 自作農を育てる方針は有朋亡き後も生き続け、昭和9年(1934年)、三代目当主山縣有道は、山縣農場開設50周年を記念して、小作人36名に土地を分譲して自作農としている。 当時開かれた華族農場の多くは平地にあって耕作を小作人に任せていたため、第二次大戦後の農地改革などの影響を直接受けたが、田畑の多くを小作人に譲渡済みで山林主体の経営となっていた山縣農場だけは、農地改革の影響をあまり受けることがなかった。〔「山縣農場の成立事情と山縣有朋の理想」『木を育て 森に生きる』86-101頁〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山縣農場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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