翻訳と辞書
Words near each other
・ 山辺の道
・ 山辺の里スポーツクラブ
・ 山辺丈夫
・ 山辺中学校
・ 山辺健史
・ 山辺健太郎
・ 山辺光宏
・ 山辺問題
・ 山辺城
・ 山辺学校
山辺安之助
・ 山辺安摩呂
・ 山辺小学校
・ 山辺広域行政事務組合
・ 山辺有紀
・ 山辺未夢
・ 山辺村
・ 山辺村 (千葉県)
・ 山辺村 (新潟県)
・ 山辺正


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

山辺安之助 : ミニ英和和英辞書
山辺安之助[やまべ やすのすけ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
山辺 : [やまべ]
 【名詞】 1. mountain 2. vicinity of a mountain
: [へん]
 【名詞】 1. (1) area 2. vicinity 3. (2) side (of triangle, rectangle, etc.) 4. (3) circumstances 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

山辺安之助 : ウィキペディア日本語版
山辺安之助[やまべ やすのすけ]
山辺 安之助(やまべ やすのすけ(やまのべ、とする場合も)、1867年(慶応3年) - 1923年(大正12年)7月9日)は、白瀬矗南極探検隊に樺太犬の犬ぞり担当として参加した樺太アイヌアイヌ名「ヤヨマネクフ」(Yayomanekuh)。樺太アイヌの指導者として、集落の近代化や、子どもたちへの教育に尽力した。著書に「あいぬ物語」(樺太アイヌ語による口述を金田一京助が筆記)。
right

== 生涯 ==

* 1867年慶応3年) - 樺太サハリン)の弥満別(やまべつ)で誕生。両親を幼い頃に亡くす。
:樺太は1854年安政元年)の日露和親条約以来、無国境状態だった。当時の樺太アイヌ人口は2372人(1873年資料)
* 1875年明治8年) - 樺太・千島交換条約によって樺太はロシア領と決定。日本と関係が深かった亜庭湾周辺の樺太アイヌ108戸、841人が北海道に移住する際に9歳の山辺も同行。政府は樺太アイヌを内陸の対雁(ついしかり)村(現江別市)に強制移住させるが、農業化に失敗し生活は困窮。
* 1878年(明治11年) - 対雁学校が開設され、山辺らが学ぶ。山辺は成績優秀。
* 1884年(明治17年) - 対雁の樺太アイヌのほとんどが石狩川右岸の来札に移住し漁業に従事。
* 1887年(明治19年) - コレラ天然痘が流行し、移住した樺太アイヌの40パーセントが死亡。
:山辺は『明治十九年の夏から秋まで段々激烈になって冬から春にかけて物が沈んでゆくように親戚の人や友達が後から後から私を置いて世を去った』(あいぬ物語)と語っている。
* 1893年(明治26年) - ロシア領の樺太に小さな船で自力帰還。トンナイチャ(富内村)の総代、ラマンテ(東内忠蔵)のところに落ち着く。
:樺太では、日本の漁業権が認められており、山辺は秋田県象潟の商家「角丁」の佐々木平次郎(良心的な漁場主として樺太アイヌに信頼されていたとされる)の鰊、鮭、鱒の漁場で働く。番屋はオホーツク海富内湖の接する場所にあった。また、民族学者のブロニスワフ・ピウスツキと知り合い、樺太アイヌの古謡や古伝を伝える。
* 1904年(明治37年)2月 - 日露戦争が勃発し、ロシア軍の攻撃で佐々木漁場の番屋と倉庫をすべて焼失。山辺は日本側について物資輸送や偵察に協力した。
:山辺は南極探検後に日露戦争の功績として、アイヌでは初の勲八等瑞宝章を授与される。表彰金70円が出たが、山辺は「金を貰うためにロシアと戦ったのではない」として村に寄付。
* 1905年(明治38年) - 日露戦争終結。ポーツマス条約で南樺太は日本領となる。
* 1907年(明治40年) - 金田一京助が樺太を初調査。ラマンテから英雄叙事詩(ハウキ)を聞き取る際、日本語が上手な副総代の山辺が協力。金田一は山辺について「六尺豊かな風貌だが、話してみると物腰の静かなやさしく穏やかな人柄」(採訪随筆)と述懐。
* 1909年(明治42年) - トンナイチャの総代となった山辺が、樺太アイヌのための最初の学校を富内村西部のオチョポカ(落帆)に建設する。佐々木漁場が資金支援。
* 1910年(明治43年) - 8月、樺太日日新聞(樺太新聞)の依頼で樺太犬を集める過程で南極探検参加を決意。9月25日、樺太犬20頭とトンナイチャを出発。11月29日、白瀬やもう1人の樺太アイヌ花守信吉とともに、芝浦ふ頭から開南丸で南極に出発。
* 1911年(明治44年)3月 - 南極圏に到達したが、ほとんどの犬が死ぬ。シドニーに撤退後、11月に樺太犬30頭を投入し、南極圏へ再挑戦する。
* 1912年(明治45年)1月17日 - ロス棚氷に接岸。1月28日、南緯80度5分、西経165度37分に到達。2月4日、悪天候に遭い緊急離岸。流氷に取り囲まれ、犬を6頭しか収容できず20頭が置き去りとなる。6月、開南丸が東京帰着。
* 1913年大正2年) - 「あいぬ物語」出版。落帆で開拓に取り組み、半農半漁による集落の収入安定を図る。
* 1923年(大正12年)7月9日 - 落帆で病没。56歳。盛大な葬儀が営まれる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山辺安之助」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.