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山部 太(やまべ ふとし、1971年1月4日 - )は、愛媛県八幡浜市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。 == 来歴・人物 == 愛媛県立八幡浜工業高等学校時代には、昭和63年春の選抜高等学校野球大会優勝校の愛媛県立宇和島東高等学校を夏の地区大会で勝利し注目を集めた。プロ野球11球団からドラフト指名挨拶があるも、腰に不安がありNTT四国に進む、また全日本メンバーに選抜され活躍。 1993年のドラフト1位(逆指名制度)でヤクルトに入団。1994年4月26日、イースタン・リーグの対西武ライオンズ戦でノーヒットノーランを達成したが、この試合では西武先発の竹下潤も1失点ながら無安打完投しており、2010年シーズン終了時点で日本プロ野球では一軍・二軍通じて唯一の「両チーム無安打試合」となっている。この年の中盤から一軍昇格し、先発ローテーションにも入ったがプロの洗礼を浴び1勝止まりだった。 1995年は開幕1軍からローテーションに定着、前半戦で11勝2敗の好成績でオールスターゲームに選出された。後半戦は中継ぎもこなしてチームトップの16勝を挙げ、チームのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。 1996年も前半戦からローテーションを守り好成績で、オールスターゲームに2年連続で選出された。しかし、後半戦は肩の故障で登板できなかった。 1997年も肩の故障は完治せず14試合の登板初の未勝利で終わった。翌年も肩の影響が残り低迷、1998年のオフにはリハビリの為に川崎憲次郎、伊藤彰らと共に渡米し治療に専念した。 1999年は肩も完治し本来の球威が戻り、先発で13試合に登板し6勝7敗と復調の兆しが見えてきた。2001年には入団以来付けていた背番号19から30に変更。この頃からスリークオーターから繰り出す、スローカーブと緩急を付けた投球を持ち味とする軟投派にモデルチェンジ。 2003年からは主に中継ぎとして登板、34試合で防御率1点台と安定した結果を出した。だが翌年2004年、2005年は再び故障が続いた。 2006年は一軍登板のないまま戦力外通告を受け、現役引退とコーチ就任を表明。10月15日の読売ジャイアンツ戦が引退試合となり、堀田一郎を三振に打ち取って(堀田はこの打席が現役最後の打席となった)有終の美を飾った。 2007年はヤクルトの二軍投手兼コンディショニングコーチを勤め、2008年から2010年までは二軍投手コーチを担当し、村中恭兵、増渕竜義、佐藤由規、赤川克紀ら若手投手陣を育成。 2011年から2013年はフロント入りし編成部課長に就任。編成部次長の角富士夫と球団内部の改革に取り組んだ。 2014年から2015年は再び二軍投手コーチを務め〔2014年コーチングスタッフについて 〕、新入団選手の岩橋慶侍や2009年のドラフト1位・中澤雅人を中継ぎ投手として再生、育成選手出身の徳山武陽など一軍に送り込んだ。 2016年から再びフロント入りし球団職員を務める。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山部太」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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