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山野辺 義観(やまのべ よしみ)は、江戸時代後期の水戸藩家老。初代助川海防城主。 == 生涯 == 享和3年(1803年)、山野辺義質の長男として江戸で生まれる。義質は水戸徳川家の一門から養子入りしており、義観は血縁上は藩主徳川斉脩・斉昭兄弟の又従弟にあたる。母・比佐は常陸笠間藩主牧野貞喜の娘で、義観ものちにおじにあたる笠間藩主牧野貞幹の娘・静を妻としている。 文政7年(1824年)に大寄合用達見習い、文政9年(1826年)に大寄合頭、700石。文政12年(1829年)、8代藩主斉脩は子女なく、後継ぎも決しないままに病重篤になり、継嗣問題が起きた。血筋から斉脩の弟・敬三郎(のちの斉昭)を推す派と、将軍家とのつながり(および財政支援)を求め徳川家斉の子・清水恒之丞(のちの徳川斉彊)を推す派に分かれた。義観を頭首とした藩士40余名は水戸を発し、江戸に赴いて敬三郎を後継ぎとするよう嘆願する。当時、義観は家老の子息であるにすぎなかったが、敬三郎擁立派は学者や中下士層を中心としており、義観がもっとも高禄であった。間もなく斉脩が死去し、その遺書により敬三郎(斉昭)が藩主に就いた。このとき無断で江戸に赴いた罪により、義観は翌天保元年(1830年)に役を免ぜられたが、間もなく許された。 天保2年(1831年)、大寄合頭上座。天保3年(1832年)、海防御用掛を命じられる。天保7年(1836年)5月、父・義質の隠居によって家督を継ぎ、家老となる。禄1万石。海防惣司を命じられ、助川(日立市助川町)周辺に知行替えとなり、同年12月建設された助川海防城に入城した。異国船に備える目的で造られた助川海防城は斉昭の改革の一環であり、義観への信頼は厚かった。また、義観の妹・直は斉昭の側室となり、義観の長男の義正には斉昭の三女・祝姫が嫁いだ。 弘化元年(1844年)、斉昭が幕府より謹慎・隠居を命じられた際、義観もまた譴責を受け、家督を長男の義正に譲って隠居し、林谷と号した。 安政6年(1859年)死去、享年57。助川東平山に葬られた。斉昭はその死を悼み、忠子の諡号を与えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山野辺義観」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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