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岑 春煊(しん しゅんけん)は、清末民初の政治家。袁世凱の政敵として知られる人物。中華民国成立後は、孫文(孫中山)らの護法軍政府(南方政府)に参加したが、孫とも対立している。チワン族(壮族)。旧名は春澤。字は雲階。父は清末の政治家である岑毓英。子には、汪兆銘政権(南京国民政府)で経理総監部総監を務めた岑徳広などがいる。 == 事績 == ===西太后の庇護 === 1885年(光緒11年)に乙未科挙人となる。1889年(光緒15年)に五品京堂候補、1892年(光緒18年)には光禄寺少卿に任命された。まもなく太僕寺少卿〔徐友春主編『民国人物大辞典』は、大理寺少卿としている。〕に異動している。1894年(光緒20年)、日清戦争が勃発すると、欽差大臣劉坤一に任用され、山東省黄県に駐在した。 1898年(光緒24年)8月、広東布政使〔『民国人物大辞典』は、広西布政使としている。〕に任命された。さらに甘粛布政使に異動する。1900年(光緒26年)の義和団の乱では、蘭州から軍勢を率いて北京に出動する。このとき、列強に追われた西太后、光緒帝を護衛した。この功により岑春煊は陝西巡撫に昇進している。 1901年(光緒27年)、山西巡撫に着任、列強との交渉を担当した。翌年には広東巡撫〔『民国人物大辞典』は、広西巡撫としている。〕への異動を命じられたが、実際には赴任せずに四川総督へと昇進した。1903年(光緒29年)、署両広総督兼督弁広西軍務に就任。翌年には粤海関監督も兼任するようになった。西太后の信任を得て昇官した岑春煊だったが、それが原因で慶親王や、それと親しい袁世凱と対立するようになる。袁との対立関係は民国時代にも影響を及ぼした。 1906年(光緒32年)、慶親王・袁世凱の策動により、岑春煊は雲貴総督への異動を命じられた。岑は発展した両広を離れることを望まず、療養を理由にこれを拒否した。1907年(光緒33年)3月、さらに四川総督に再任された。しかし岑は入京して西太后の庇護を得てその人事を拒否、郵伝部尚書に改めて任命された。6月、岑は再び両広総督に任命され任地に向かった。ところがその途中で、慶親王と袁の謀略により岑は解任されてしまう。解任された岑は上海に留まり情勢の変化を待った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岑春ケン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cen Chunxuan 」があります。 スポンサード リンク
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