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岡崎 義実(おかざき よしざね)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。三浦氏の庶家・岡崎氏の祖。三浦義明の弟。三浦義継の末子で三浦悪四郎と呼ばれた。相模国大住郡岡崎(神奈川県平塚市岡崎・伊勢原市岡崎)を領し、岡崎氏を称した。 三浦氏は古くからの源氏の家人で、義実は忠義心厚く平治の乱で源義朝が敗死した後に鎌倉の義朝の館跡の亀谷の地に菩提を弔う祠を建立している。義朝の遺児源頼朝の挙兵に参じ石橋山の戦いで嫡男の義忠を失ったが、挙兵直後の頼朝をよく助け御家人に列した。晩年は窮迫したが89歳の長寿を全うした。 土肥実平の姉妹を妻にしており、本家の三浦氏とともに土肥氏とも関係が深い。 == 生涯 == === 頼朝挙兵 === 治承4年(1180年)8月9日に源義朝の遺児の頼朝が伊豆国で挙兵を決めると嫡男の与一義忠とともに直ちに参じた。挙兵を前に義実は源氏の御恩のために身命を賭す武士として、特に頼朝の部屋に呼ばれて合戦について相談され「未だに口外していないが、汝だけを頼りにしている」との言葉を受け、感激して勇敢に戦うことを誓った。実は、このように密談をしたのは義実だけではなく、工藤茂光・土肥実平・宇佐美助茂・天野遠景・佐々木盛綱・加藤景廉も同じことを頼朝から言われている。ただ、義実・義忠父子が特に頼みにされていたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平と伴に北条館へ参じるよう伝えている。 8月17日に頼朝は挙兵して伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃してこれを殺害した。頼朝は300余騎の軍勢を率いて相模国の土肥郷(神奈川県湯河原町)へ進出。23日に石橋山(神奈川県小田原市)で平家方の大庭景親率いる3,000余騎と相対した。石橋山の戦いは寡兵の頼朝方が大敗を喫し、義実の嫡男の義忠が討ち死にしている。『平家物語』や『源平盛衰記』には先陣となった義忠の奮戦ぶりが詳しく描かれており、武勇の若武者佐奈田与一義忠の名は後世に長く残ることになる。 敗走した頼朝は山中に逃げ込み、土肥実平の進言で一旦兵を解散させることになった。一同は安房国で再会することを約し、泣く泣く別れた。義実は北条時政や三浦義澄らと先発して安房へ舟を出し、後から到着した頼朝を迎えた。 その後、頼朝は千葉常胤や上総広常らの軍勢を加えて再挙し、関東の武士が続々と参陣して10月6日に鎌倉に入った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡崎義実」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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