|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 岡 : [こう, おか] 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground ・ 本 : [ほん, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation ・ 柳 : [やなぎ] 【名詞】 1. willow 2. slim ・ 之 : [これ] (int,n) (uk) this ・ 助 : [すけ] (n) assistance
岡本 柳之助(おかもと りゅうのすけ、嘉永5年8月14日(1852年9月27日) - 1912年(明治45年)5月14日)は、紀州藩出身の国粋主義者、大陸浪人、陸軍少佐、朝鮮宮内府兼軍部顧問。本姓は諏訪。乙未事変を主導〔黒龍会編『東亜先覚志士記伝』によれば、「閔妃の首を実際に刎ねた人物」と記されている。〕。辛亥革命が勃発すると上海に渡り、当地で客死した。号は東光。 == 経歴 == 紀州藩の世臣・諏訪新右衛門の第二子。江戸藩邸に生まれる。岡本家の養子となり岡本姓を名乗る。幼少より文武の才に富み、15歳で幕府の砲術練習所に学び、16歳で江戸定府紀州藩砲兵頭となり、彰義隊に加わって佐幕派として官軍に抗するがのち敗れて伊勢松坂に送致される。維新後の藩政改革で津田出や鎌田栄吉、陸奥宗光に見出され、東上して1874年(明治7年)に陸軍大尉となる。1875年(明治8年)の江華島事件の際に朝鮮に派遣された黒田清隆に随行して渡韓。1877年(明治10年)の西南戦争では、大阪鎭台の参謀大尉として山路元治と共に九州各地に転戦。戦後に、功で少佐に進み、東京鎭台予備砲兵大1大隊長となる。 竹橋事件では呼応せんとする部下の内山定吾少尉らに押され、参加。しかし当日の決起直前に突如静観の姿勢へと転換、午後10時飛鳥山への行軍を開始した。暴動発生後も参加を勧める部下を抑え、そのまま飛鳥山で宿泊した〔竹橋事件百周年記念出版編集委員会、p18〕。しかし、結局は竹橋兵営の隊長として暴動を知りながら上官に報告もせず、暴動勃発後も鎮圧にあたらなかったとして官職を追放される〔竹橋事件百周年記念出版編集委員会、p189〕。 これらの行動について、反乱を通して当時西南戦争に関与したとして投獄されていた陸奥宗光を救出しようとしたものの、直前に津田出に諌められ反乱を思いとどまったとの説もあるが〔麻生三郎著『竹橋近衛暴動記 竜の軌跡〈第3部〉倒された竜』 丸善出版、1976年 p201〕、当時津田と面会した事は実証されていない〔竹橋事件百周年記念出版編集委員会、p188〕。 そして路頭に迷っていた所を、同藩の鎌田栄吉から福澤諭吉を紹介され、門人となる。福澤邸で書生を務めながら、ともに官職を追放された松尾三代太郎と慶應義塾に学び、金玉均・朴泳孝と親交を深める。次いで日蓮宗の新井日薩と日蓮主義を研究し、南方熊楠とも親交を持った。井上角五郎らと共に金玉均を追って上海に渡り、次いで大鳥圭介公使や陸奥宗光外相と共に京城に渡り、袁世凱との折衝に努める。陸軍の福島安正とはかり、雲峴宮より大院君を奉じて朝鮮内部の改革を主導して朝鮮政府の軍事顧問に就任した。 晩年は支那革命を援助しながら東洋政策の研究と『日魯交渉北海道史稿』・『政教中正論』などを記して北海道史や日蓮仏教の研究などを行った。1912年(明治45年)に清国上海を視察中、急死した〔「岡本柳之助没す」明治45年5月16日『新聞集成明治編年史第十四巻』 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡本柳之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|