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岡本 秀広(おかもと ひでひろ、生没年不詳)は、安土桃山時代の美作国の武将。通称は権之丞。 == 生涯 == === 浦上家臣時代 === 備前国の戦国大名・浦上宗景の重臣である岡本氏秀の子と目されるが、現在のところ断定はできない。 文書での初出は元亀2年(1571年)9月4日の佐井田城の戦いで、この時に浦上軍の援軍として秀広が、宇喜多軍の援軍として伊賀久隆らが佐井田城主植木秀資と協力して戦い三村元親・荘元祐らを破った〔『桂岌円覚書』〕。この時、秀広は敵の首を挙げて宗景より「比類なき働き」と賞賛され、宗景と赤松満政の2人から感状を賜っている〔『黒田御用記』。当時、浦上氏は中央と関わる上でほぼ形骸化していた赤松氏との主従関係を再び持ち出すことで領地支配の正当性を担保していた。 この時は、宗景が満政の家臣鳥居職種に秀広への感状の発給を促しており、その結果満政からの感状も後日秀広へと届けられる運びとなった。〕。 天正2年(1574年)4月から天正3年(1575年)9月までの天神山城の戦いでは浦上方であり、天正3年(1575年)の2月から3月にかけて岡本氏秀と共に秀広も三浦貞広家臣の牧清冬に山中幸盛の美作出兵が近いことを知らせ、激励していた〔『下河内牧家文書』「牧之家可秘」〕。天神山城の戦いを宇喜多直家が制し、浦上氏が滅亡した後はこれに仕えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡本秀広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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