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大村 崑(おおむら こん、1931年11月1日 - )は、日本のコメディアン・俳優である。いかりや長介と生年月日が同じ。昭和30年代を中心に、黎明期のテレビの軽演劇で爆発的な人気を得て、その後は飄々とした持ち味で様々な作品に出演している。大阪府箕面市在住。 == 来歴 == 兵庫県神戸市長田区東尻池町出身。高校卒業後、神戸のキャバレー「新世紀」のボーイなどの仕事をしていたが、20歳前に肺結核に罹り右肺を切除、医師からは「あなたは40歳まで生きられないだろう」と告げられる〔アサヒ緑健の青汁通販番組『人生(たび)の切符』で明らかにしている。〕。限られた命ならばと、亡き父の影響で好きだった喜劇の世界へ足を踏み入れることを決意。1953年、大久保怜に師事し、司会の勉強をした後、1957年、大阪梅田の映画館「北野劇場」専属コメディアンとして舞台に立つ。この時、東宝専属で北野劇場はじめ東宝系の映画館や、北区角田町のOSミュージックホールなどで台本を書いていたコント作家・演出家こそ、その後長きにわたり大村の出演作を生み出した花登筺だった。三木のり平からヒントを得たと言われる「ずれ落ちたロイド眼鏡」と、とぼけた芸風で黎明期のテレビに進出、茶川一郎、佐々十郎とともに『やりくりアパート』(1958年、大阪テレビ→朝日放送)の学生役で人気を得る。その後、茶川、佐々、芦屋雁之助、芦屋小雁らと共演した『番頭はんと丁稚どん』(1959年、毎日放送)での“丁稚の崑松”役でさらに知名度をあげる。 1959年、花登が東宝から独立。雁之助・小雁、由美あづさらとともに『劇団・笑いの王国』〔1933年、古川ロッパ、徳川夢声らによって結成され1943年まで活動した軽演劇劇団『笑の王国』とは無関係である。〕の結成に携わり、座長に就く。 同年、『笑いの王国』が全面的に関わった『頓馬天狗』(読売テレビ / 東宝テレビ部〔そもそも花登の劇団結成は『やりくりアパート』のレギュラーだった子役・中山千夏の東京・芸術座での舞台起用に伴う処遇を巡り、花登と東宝との関係が悪化し、松竹の支援で結成に至ったものだったが、東宝側は「関係が切れるのは東京との関係で、と関西は今まで通りに…」と完全な決裂とはならなかった。また、「東宝テレビ部」はテレビ制作プロダクションとして、独立性が高かったこともあり、キャスティングに際してトラブルは発生しなかった。〕)の主役を務め、人気を決定づける。とぼけたキャラクターながら、秘薬を飲むと抜群の剣の腕となり、左手だけの「片手抜刀」など、毎回身軽でトリッキーな殺陣をみせる大村の「尾呂内南公」は当時の子供たちを中心に絶大な支持を受け〔2012年12月に死去した十八代目 中村勘三郎も、五代目 勘九郎の子ども時代『頓馬天狗』の大ファンで、放送当時、十七代目宅に招かれ、勘九郎とチャンバラをした思い出があるという。〕、「崑ちゃん」の知名度を全国区に広めた。元々映画館の幕間コントの演者に過ぎなかったが、テレビを通じて上方のお笑いを中田ダイマル・ラケット、藤田まこと、藤山寛美らと共に全国に波及させるきっかけを作った。 1963年、劇団内では「人気の崑、実力の雁之助」という2枚看板が成立していたが、雁之助はその演技力を評価されながらも二番手に甘んじている事への不満などから、次第に花登や大村と距離を置くようになり、やがて軋轢を生む。大村とは気が合う仲だった弟・小雁も兄に追従していった。また看板女優の座に君臨する「主宰者の妻」・由美あづさの横暴など、座員間の人間関係の不協和音が表面化しはじめたことから、花登は劇団解散を決意する。 1965年、『日清ちびっこのどじまん』(フジテレビ系)の2代目司会者に抜擢〔これは初代司会者・桂小金治が「子どもが“惚れたはれた”を扱う大人びた歌謡曲を歌う事」に異議を唱え、7回で降板したため。〕。『頓馬天狗』やCMで得た、子供視聴者からの絶大な人気にも支えられ、4年間にわたり司会を務めた。『ちびっこのどじまん』終了後は、それを引き継ぐ形で1971年、日本テレビ『おはよう!こどもショー』の1コーナーとして『こんちゃんのトンカチうたじまん』がスタート。こちらも4年半にわたる人気コーナーとなった〔大村の司会降板後も「こどものどじまんコーナー」として継続された。〕。こうした“子ども向け番組・イベント”などにも多く関わっており、1970年日本万国博覧会「こどもの祭り」を演出。1981年には神戸ポートアイランド博覧会で「こどもの世界の祭り」の制作、演出を担当した。 1970年、花登原作・脚本によるテレビドラマ『細うで繁盛記』(よみうりテレビ、東宝)に主人公・加代(新珠三千代)を陰から支える理解者の一人、板前・善三役で出演。コミカルな演技から脱却し、渋い演技で新境地をみせた。1972年には花登が新たに結成した『劇団「喜劇」』に参加。再び劇団の主軸を支えることとなる。 1974年、劇団主宰者・花登と女優・星由里子の不倫問題が発覚。大村は花登と同様に、花登の当時の妻・由美にも恩義があり、妻・瑤子も由美と親しい仲であったため、板挟みの状態で、花登の行動を容認できない状況の中、苦渋の選択を強いられた。結局、花登に劇団退団を申し出、駆け出しの頃から築き上げた花登との「師弟関係」ともいうべき信頼関係は終わりを告げた〔花登は1983年に週刊朝日に連載し、没後に単行本化された『私の裏切り裏切られ史』(朝日新聞社、)の中で大村の事を「愛弟子」と表し、“愛情の裏返し”ともとれる痛烈な批判を著しているが、大村はこの連載開始以降、花登に対して「師」という表現を一切使用しなくなった。〕。 以来、主な活動の場をコメディーや司会から、俳優中心にシフト。飄々とした持ち味以外にも、激しい気性の役どころなどもこなし、演技の幅を広げながらキャリアを積んでいる。その後は情報番組のコメンテーターや、講演活動などもこなしている。 1989年、58歳の時に大腸癌を患っているが、内視鏡手術で切除〔 〕、その日のうちに『午後は○○おもいッきりテレビ』の生放送にも出演している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大村崑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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