翻訳と辞書
Words near each other
・ 岡田光央
・ 岡田光学
・ 岡田光学精機
・ 岡田光玉
・ 岡田光興
・ 岡田光雄
・ 岡田光雄 (作家)
・ 岡田光雄 (野球)
・ 岡田克也
・ 岡田八十次
岡田八千代
・ 岡田公彦
・ 岡田典弘
・ 岡田内閣
・ 岡田円
・ 岡田冨美子
・ 岡田准一
・ 岡田刀水士
・ 岡田利兵衞
・ 岡田利弘


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

岡田八千代 : ミニ英和和英辞書
岡田八千代[おかだ やちよ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [やつ]
 (num) eight
八千代 : [やちよ]
 【名詞】 1. eternity 2. thousands of years 
: [せん ち, ち]
 【名詞】 1. thousand 2. many
千代 : [ちよ]
 【名詞】 1. (1) thousand years 2. (2) very long period 3. forever
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

岡田八千代 : ウィキペディア日本語版
岡田八千代[おかだ やちよ]

岡田 八千代(おかだ やちよ、1883年明治16年)12月3日 - 1962年昭和37年)2月10日)は、明治 - 昭和期の小説家劇作家、劇評家。芹影(きんえい)、芹影女、伊達虫子などの筆名を用いた。

== 生涯 ==
広島市大手町に生まれた。小山内建と錞との間の末娘だった。旧津軽藩士の建は、広島鎮台病院院長を勤めていた。錞は、江戸旗本小栗信の長女である。5子の上2人は夭折し、次女は事故で病身となり、次男の小山内薫と八千代とが育った。
1885年(明治18年)、建が没し、母子は東京市麹町区富士見町(現・千代田区富士見)へ移った。繁く芝居に連れられた。1887年富士見尋常高等小学校(現・千代田区立富士見小学校)、1895年共立女子職業学校(現・学校法人共立女子学園)へ進み、成女学校専科へ転じて、1902年(19歳)に卒業した。
文学・演劇に打ち込む兄を尊敬していた。美貌の妹は、薫の友人らの気になる存在だった。卒業の年、『明星』誌に小品『めぐりあひ』を、『婦人界』誌に小説『おくつき』を発表した。森鴎外の弟三木竹二に認められ、彼の『歌舞伎』誌に劇評も書いた。
1906年(明治39年)(23歳)の年末、森鴎外の世話で画家の岡田三郎助と結婚し、渋谷区伊達町(現・渋谷区恵比寿三丁目)に新世帯を構えた。文筆活動が結婚で滞ることはなかった。1911年、平塚らいてうらの青鞜社の顧問となり、青鞜誌にも書くようになった。1903年 - 1915年の雑誌への掲載は、年に4 - 10件に及んでいる〔福谷幸子編:『岡田八千代年譜』(「『明治女流文学集二』、筑摩書房 明治文学全集82(1965)」の巻末)〕。
三郎助が八千代をモデルにした『縫ひとり』(1914年)や『支那絹の前』(1920年)は評判を呼んだが、不和となり、1926年、八千代は家を出た。別居生活は三郎助が亡くなるまで続いた。
演劇の評論ばかりでなく、新派歌舞伎の公演にも関わった。1922年(大正11年)、河合武雄二代目市川猿之助に頼まれて『芽生座』を興し、彼等の学齢期の子らのおさらい会を1926年まで4回公演した。子らの成長後は児童劇団に転身し、1930年まで5回公演した〔富田博之:『日本児童演劇史』、東京書籍(1976)p.165 - 172〕。
1923年(40歳)、親友の長谷川時雨に誘われ、2人で『女人藝術』を創刊したが、関東大震災のため2号で終わった。
1930年に『芽生座』を解散したのは、和解した三郎助とパリへ渡るためだったが、彼の地でまた割れ、八千代だけ1934年(51歳)まで滞まった。子は持たなかった。薫は1928年に急逝していた。
帰国後の1935年(昭和10年)(52歳)、新派の若手俳優らの未明座を組織して、1939年まで5回公演した。
1939年(昭和14年)夫の三郎助が没し、伊達町の家へ戻った。1940年から、長谷川時雨の『輝ク会』を手伝い、翌年、日本海軍将兵の慰問に中国中南部を回った。
敗戦後の1948年(昭和23年)(65歳)、『日本女流劇作家会』を作って会報『アカンサス』に『芝居の思い出』などを載せ、同会の『女流戯曲選集』、『現代女流戯曲選集』を監修した。また、ラジオドラマを書く、ラジオ放送する、劇を演出する、本に解説を書くなどもした。
1962年早春、インフルエンザ肺炎のために没した。青山霊園 の夫の傍らに眠っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岡田八千代」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.