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岡田博 : ミニ英和和英辞書
岡田博[おかだ ひろし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ばく, ひろ]
  1. (n,n-suf,vs) doctor 2. Ph.D. 3. exposition 4. fair 5. exhibition 6. commanding esteem 7. winning acclaim 8. gaining 9. receiving 10. command esteem 1 1. win acclaim 12. gain 13. receive

岡田博 : ウィキペディア日本語版
岡田博[おかだ ひろし]
岡田 博(おかだ ひろし、1912年明治45年)3月21日 - 2001年平成13年)9月29日)は、日本の医師医学博士名古屋大学医学部名誉教授、愛知医科大学学長を務め、公衆衛生予防医学発展に寄与した。京都府出身。
== 生涯 ==
1912年(明治45年)3月21日、岡田吉相(おかだよしすけ)の長男として誕生した。父吉相は滋賀県野洲郡守山村吉身(現守山市)で生まれ、後に京都市東山区東山松原にて医院を開業した。祖父は滋賀県議会議長衆議院議員を務めた岡田逸治郎。博は父と共によく守山を訪れ、博の息女一人は守山で誕生した。
;名古屋大学医学部〔「日本衛生学雑誌 56巻4号」 巻頭「故岡田博先生を偲んで」(日本衛生学会 2002年1月)〕〔「岡田博教授研究業績集 教授就任十周年記念」(須永寛編 名古屋大学医学部予防医学教室白門会 1964年)〕〔「名古屋大学医学部予防医学教室研究業績集 岡田博教授退官記念」(須永寛他編 名古屋大学医学部予防医学教室 1975年)〕
1933年昭和8年)入学者80名中席次13番の成績で名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)に入り〔官報 1933年4月24日「入学許可 名古屋医科大学」〕、1937年(昭和12年)3月席次5番で卒業した。直後に同大学内科第一講座副手となり、1942年(昭和17年)8月論文肝臓機能より観たる静脈果糖負荷に依る血中果糖量の消長に就いて』審査により名古屋帝国大学より学位(医学博士)を授かる。1943年(昭和18年)1月から半年間東京国立公衆衛生院に派遣され、同年派遣終了後の7月名古屋帝国大学医学部予防医学講座に転進し同講座の助教授に昇任した。
同年12月一時大学を休職し京都陸軍第16師団に入営、ルソン島に派遣された後1946年(昭和21年)9月に復員した。大学に復職後、助教授在任中の1954年(昭和29年)ロックフェラー財団チャイナメディカルボードのフェローとして米国ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生学部に留学、Master of Public Health学位を取得後、1955年(昭和30年)9月帰国した。帰国前の5月、留学中に名古屋大学医学部予防医学講座第2代教授に就任し。1965年(昭和40年)『非定型抗酸菌症の疫学臨床』により日比野進(名古屋大学医学部第一内科教授)と共に中日文化賞を受賞し、1975年(昭和50年)3月名古屋大学を定年により退官した。なお、同年6月には同大学名誉教授に補された。
;愛知医科大学〔〔「愛知医科大学十年誌」(愛知医科大学 1982年)〕〔「躍進する愛知医科大学 創立二十周年記念誌」(愛知医科大学 1992年)〕〔「愛知医科大学三十年史 通史」(愛知医科大学 2006年)〕
名古屋大学退官後、1975年(昭和50年)4月愛知医科大学公衆衛生学講座初代教授に迎えられた。日本学術会議会員に補されると共に、1978年(昭和53年)には公衆衛生分野での功労者に贈られる保健文化賞を受賞した。1982年(昭和57年)3月愛知医科大学を定年で退官した後、4月同大学第5代学長に就任した。1985年(昭和60年)3月愛知医科大学学長を退任し、翌4月同大学名誉教授位を授けられた。
愛知医科大学時代は、同大学における公衆衛生・予防医学の基礎を築くと共に、公衆衛生学会会長等を務め、広く公衆衛生学の普及に尽力した。また、愛知医科大学では昭和50年代様々な不祥事寄付金問題・1977年(昭和52年)3億円強奪事件)があったが、再建理事会理事の一人として、また学長として学園浄化と教育体制変革に尽くした。卒業生に学位を取得させるために必要な大学院研究科設置においては、第2代大学院医学研究科設置準備委員会委員長として1979年(昭和54年)大学院発足を目指し、1980年(昭和55年)3月設置認可を得た。岡田が学長時代には1983年(昭和58年)4月加齢医科学研究所、同年6月メディカルクリニック、同年12月附属動物実験施設が設置・開設され、愛知医科大学の設備充実が図られていった。
;愛知医科大学退職後〔〔「事業概要 昭和61年−平成2年」(名古屋市科学館 1990年)〕〔「開館40年のあゆみ 名古屋市科学館開館40周年記念誌 1962-2002」(名古屋市科学館 2003年)〕
1986年(昭和61年)4月名古屋市立科学館(現名古屋市科学館)6代目館長に就任し、直後の9月より『生命館』建設に取り掛かり1989年(平成元年)9月に開館し、また1988年(昭和63年)12月にはシンボルマーク・マスコットキャラクターを定め、市民・子供達にとって科学館が身近な存在になるよう努力した。1990年(平成2年)1月22日、博物館として国からの補助金や助成制度が受けられる博物館登録を行うことができた。
2001年(平成13年)9月29日、愛知医科大学附属病院にて逝去。
;主な研究内容〔
結核症』の研究において『ツベルクリン反応の自然陰転の証明』、『ツベルクリン注射方法の改善』、『抗結核剤耐性結核菌による初感染の報告』、『薬剤による結核症予防』『精製ツベルクリンの研究』『BCG乱切接種方法の研究』等、結核症の発生予防と結核予防法の改正に貢献した。
『ジフテリア』の研究では、集団免疫の助長と菌型の推移・健康保菌者の様相を明らかにした『血清疫学研究』を通じて予防接種法の改正に影響を与えた。
『非定型抗酸菌症』に対しては、我国における同症状研究の先駆けとなり、『循環器疾患』に対しては主に脳心血管疾患の長期追跡研究を行い、発生要因の探求から調査対象とした町村における脳卒中死亡率を半減させるなどの成果を得た。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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