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岡田撫琴(おかだ ぶきん、1873年 - 1940年5月10日)は、日本の新聞社経営者、出版人、俳人。1915年(大正4年)開催の「家康忠勝両公三百年祭」を実行面で取りしきった。近代岡崎市の文化発展に寄与した人物の一人。 == 経歴 == 愛知県岡崎市に千賀伝左衛門の孫として生まれる。本名は岡田太良次郎。生まれるとすぐに岡崎投町(現・岡崎市若宮町)の醤油業岡田壮太郞のもとへ養子にやられる。養父壮太郎は梅園町の誓願寺境内の茶室「不蔵庵」の維持に尽くしていたので〔なお梅園町の誓願寺は1945年7月20日の岡崎空襲で焼失した。〕、撫琴は「不蔵庵の息子」と呼ばれた。 岡崎連尺町(現・岡崎市連尺通)の大賀屋の植田石芝から俳句の手ほどきを受け、16、17歳の頃から俳人として頭角を現した。正岡子規の俳句運動の影響を受け、高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫ら子規一門の俳人・歌人とも交わりがあった。そのほか交際範囲は野口雨情、若山牧水、中山晋平など多方面にわたっていた。特に雨情、牧水、森田草平、内藤鳴雪、大谷句仏などがしばしば岡崎の地を訪れたのは、そこに岡田がいたためだと言われている〔『岡崎の人物史』 236-237頁。〕。 1900年(明治33年)6月、新実新十郎、菅野鉦治、大山甚八郎らと『三河商工新聞』を発刊(月3回刊行)。1906年(明治39年)には同紙を発展させた日刊新聞『三河』〔『新編 岡崎市史 総集編 20』 93頁。〕を安藤現慶、小田冷剣らと発刊、岡田は自ら社長となった。『三河』はやがて廃刊となるが、1911年(明治44年)、竹内五郎(竹内京治の義父)によって『岡崎朝報』として再興されている。 1907年(明治40年)から1908年(明治41年)にかけて、岡崎町立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)新築を巡って賛成派と反対派の間で激しい争いが起こる(いわゆる二校三校事件)。この対立において岡田は二校派の岡崎町民同盟会副会長となり、町民に過重な負担を強いるとして高等女学校の校舎新築に反対〔『新編 岡崎市史 近代 4』 419頁。〕。しかし1908年2月21日に役場前の弁天坂で発生した暴動事件の首謀者の一人として捕らわれ、懲役1年執行猶予4年の判決を受けた〔『新編 岡崎市史 総集編 20』 103-04頁。〕。 1911年(明治44年)、安藤現慶らと月刊『鞦韆』(ふらここ)を発刊した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡田撫琴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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