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岡田米山人(おかだべいさんじん、延享元年(1744年) - 文政3年8月9日(1820年9月15日))は江戸時代後期の大坂を代表する文人画家。岡田半江はその子(養子説有り)である。 通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛(よねやひこべえ)と称し一説には彦吉とも称したという。名を国、字は士彦(しげん)、画号を米山人、米翁といった。 == 略伝 == 米山人の前半生の事績については詳しいことは伝わっていない。その生まれについても大坂説、神戸生田村説、丹波八木説などがある。まだ両親、兄弟、先祖についても全くわかっていない。 若いころ、播磨国神東郡剣坂村(兵庫県加西市西剣坂)の庄屋安積喜平治の寵愛を受け、同家に寓居し、日がな米をつきつつ寸暇を惜しんで書を読み熱心に詩作する。この評判が聞こえ郡代の前で幾たびか講義をすることもあった。妙齢になり大坂に出る意向を示すと喜平治より金銭的な支援を受け米屋を開業できた〔宇都宮大潔『播磨奇人伝』(森銑三による指摘で近年事実と認められた)〕。この米屋は寒山寺裏長池(大阪市北区曽根崎一丁目、曽根崎天神付近)にあったと思われる。また安積家に仕えた乳母を喜平治の世話により妻に迎えている。画号の米山人も稼業の由来であろう。 大坂に移っても米臼をひきながら読書し余技に書画を嗜なみ、独学で経学を修め中国文人画の精髄を習得した。その評判は大坂中に聞こえ、ついに藤堂高朗の知るところになった。天明2年(1782年)のころ、商人でありながら伊勢国藤堂藩仕え、藤堂藩蔵屋敷内(大阪市北区天満橋2丁目)に移り住んだ。七里鎌倉兵衛が蔵屋敷の留守居(藩邸の最高責任者)であったがこの者の下役であったようだ。蔵屋敷の居宅の一部を画室として「正帆」と命名し、ここで多くの文人墨客と交わった。稼業の米屋は廃業せず以降も継続しのちに息子半江に引き継がれている。 39歳の時、長子半江が生まれる。妻は37歳の高齢であった。半江の号に小米を与えたが米芾親子を意識したものと思われる。なお半江はこの号の発音が小便に近いことからあまり好まなかったようだ。 65歳前後で下役を致仕。半江にこの職を譲り自らは源八渡し (大阪市北区天満橋2丁目)近辺の別宅に隠居した。懸案となっていた安積家の障壁画 を半江と合作して完成させて安積喜平治の恩義に報いた。 70歳を超えた頃に飲酒と煎茶を嗜むようになったようだ。75歳の時、長年連れ添った妻を亡くし大きな衝撃を受ける。死を迎えるまでの遺された2年間に書画の創作活動はもっとも旺盛となった。享年77。 学問・画ともに独学であったがそれだけに典籍・書画の蒐集品にこだわり、明清元画・漢詩の典籍・日本の古書画など膨大な量が息子半江に遺されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡田米山人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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