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岡譲司 : ミニ英和和英辞書
岡譲司[おか じょうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground

岡譲司 : ウィキペディア日本語版
岡譲司[おか じょうじ]

岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970年12月17日)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.113-114.〕〔''岡譲司''、''jlogos.com'', エア、2013年1月28日閲覧。〕〔''岡譲司''日本映画データベース、2013年1月28日閲覧。〕〔''岡譲司''、''岡譲二''、''美濃部進''、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月28日閲覧。〕〔''岡譲司''、''岡譲二''、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年1月28日閲覧。〕〔''岡譲司''、''岡譲二''、''美濃部進''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月28日閲覧。〕〔''岡譲司''KINENOTE, 2013年1月28日閲覧。〕〔''岡譲司''allcinema, 2013年1月28日閲覧。〕〔''岡譲司''、''岡譲二''、''美濃部進''、日活データベース、日活、2013年1月28日閲覧。〕〔''岡譲司''テレビドラマデータベース、2013年1月28日閲覧。〕。本名中溝 勝三(なかみぞ かつぞう)、旧芸名美濃部 進(みのべ すすむ)、岡 譲二(おか じょうじ)〔〔〔〔〔〔〔〔〔。
== 人物・来歴 ==
1902年明治35年)5月25日東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる〔〔〔。祖父は佐賀藩勘定方を務め、父は三十五銀行(現在の静岡銀行)の頭取であったという〔が、氏名等は不明である。
画家志望であったが、立教大学商科に進学、同学を卒業し、日本蓄音器商会(現在の日本コロムビア)広告宣伝部に入社する〔。同社で同部長に昇進したが、日活宣伝部員の友人の誘いを受けて退社、満26歳である1929年(昭和4年)初頭に日活太秦撮影所現代劇技芸部に入社、同年2月8日に公開された『栄冠』で映画界にデビューとされるが〔〔、前年の1928年(昭和3年)9月27日に公開された池田富保監督による大作『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』に、島津久光役で出演しており「美濃部 進」の名ですでにクレジットされている〔〔。同社では、おもに現代劇に出演、1929年7月6日に公開された徳永フランク監督の『赤い灯青い灯』で主演に抜擢される〔〔〔〔。
1931年(昭和6年)、宝塚少女歌劇団出身の女優、澤蘭子と恋愛および失踪事件を起こし、同年10月1日に公開された池田富保監督の『殉教血史 日本二十六聖人』に出演したのを最後に、二人とも退社を余儀なくされた〔〔。澤蘭子はすでに同年4月に東京の松竹蒲田撮影所に移籍していたが、同社では、同年10月、鈴木傳明岡田時彦高田稔らが退社して独立、不二映画社設立の事態となっており、宝塚の経営者・小林一三の尽力もあって、岡も同社に入社する〔〔〔。蒲田入社と同時に「岡 譲二」と改名した〔〔〔。当時の所長、城戸四郎が好きな洋酒の「ジョニー・ウォーカー」をもじって命名したとのことである〔。同社では、田中絹代初代水谷八重子らと次々に共演、サイレント映画からトーキーの時代に突入し、岡の美声が評判となり、数年のうちに蒲田のスターとなる〔〔。とりわけ野村芳亭監督には重用されたが、1934年(昭和9年)8月15日に公開された『街の暴風』を最後に、同月23日、野村が急逝してしまう〔。同年、同社を退社、協同映画を設立する〔〔〔。
協同映画を解散した1935年(昭和10年)、日活多摩川撮影所に入社する〔〔〔。1936年(昭和11年)1月30日に公開された、入江プロダクション製作、阿部豊監督の『白衣の佳人』に出演した後、同月、初めての徴兵を受け、大日本帝国陸軍少尉として3週間入隊した〔。原職に復帰して、同年4月8日公開、千葉泰樹監督の『恋は雨に濡れて』に出演、その後1937年(昭和12年)1月14日に公開された『検事とその妹』に主演したのを最後に、同作の監督の渡辺邦男とともに同社を退社、京都のゼーオー・スタヂオ、さらにはP.C.L.映画製作所へと同時に移籍して行く〔〔。同年9月10日の両社の合併による東宝映画の設立に際しては、継続的に入社し、P.C.L.のスタジオの後身である東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)に所属した〔〔。このころ、澤蘭子との内縁関係を解消し、翌1938年(昭和13年)、新橋の名妓と呼ばれた秀菊(本名・田中都美子)と結婚した〔。1939年(昭和14年)には、2度目の徴兵を受けて、1年間、大日本帝国陸軍少尉として働き、同年12月29日公開、滝沢英輔監督の『御存知東男』で映画界に復帰した〔〔。当時の岡の言によれば「私淑する俳優」は、コンラート・ファイトヴェルナー・クラウスポール・ムニであるという〔。
1944年(昭和19年)8月、3度目の徴兵を受けて大日本帝国陸軍中尉として、台湾基隆に駐屯、台北で終戦を迎えた〔。第二次世界大戦終結後は、1946年(昭和21年)3月10日に復員して東宝に復帰、同年8月1日に公開された渡辺邦男監督の『命ある限り』で映画界に復帰した〔〔。東宝争議の勃発を受けて、1947年(昭和22年)、大映と契約を結ぶ〔〔。1954年(昭和29年)7月6日に公開された、安田公義監督の『関八州勢揃い』への出演を機に「岡 譲司」と改名した〔〔〔。晩年は妻とは離婚し、子は妻の姓を名乗っており、画廊を経営していたという〔。
1970年(昭和45年)12月17日、高血圧による心臓病を病み、東京都渋谷区代々木の病院で死去した〔〔。墓所は青山霊園にある〔。長女は第12期大映研修生、長男は真山譲次の芸名で、青年期の一時期、俳優として活動した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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